双色の勇者

いつか果たされる約束
果たすために全ての力を尽くし
その先に何があるのか

 もうしばらく、という言葉がどれだけの期間を示すのかアズールは知らないが、敢えて自ら尋ねるほどのことでもないと思っていた。必要になればバーキアのほうから言われるだろうと思えば、気も楽に日々を過ごした。
 昼にバーキアが城へと詰めている間にアズールは街を探索し、夜になれば侍女に給仕をしてもらう晩餐を共にする。今まで味わったことのない贅を尽くした上等な酒と食事はアズールを弛緩させるには十分なものだった。話に聞く奥方と会えていないことが気がかりだったが、久しぶりの世界から得る刺激に心が奪われ、深く考えることもしなかった。
 そうして日々は過ぎていき、何事も無く十日が経った。その日もまた奥方を抜きでバーキアとの晩餐は進み、やがてお開きとなる。正直に言えばアズールはもっとバーキアと話をしたかったが、遊んでいるアズールとは違ってバーキアは明日も朝が早い。
 何よりも、
「年寄りには辛いんだよ」
 とそう苦笑交じりに言われてはもう何も言うことはできなかった。バーキアには恐らくその気はないのだろうが、どうしたところで五十年という歳月を意識してしまう。
 互いの違いを目の前に突きつけられ、現実が何かを告げているようでさえあった。
 考えすぎなのだろうと思う。だが起きていれば思考は巡り、何かを考えてしまう。だから晩餐の後は寝てしまうことにしていた。寝てしまえば何も考えずにすむ。
 いつもどおりに与えられた部屋へと戻り、明かりもつけず靴さえ脱がずにベッドへと倒れこむ。与えられた充足は素晴らしいものであり、心地より感覚に浸りながら眠れそうだった。
 いつもどおりなのだ。そう思ってしまうほどにアズールにとってこの日々は満ち足りた日々だった。いずれ終わりは来るのだろうが、それでもいつまでも続けと願ってしまう日々だ。ずっとこんな時が来ればいいと願い続けて戦ってきたのだから。
 余計なことは考えずに頭の中を楽しいことだけで埋めれば心地よい眠りがいつの間にかアズールに明日を与えてくれる。目を閉じればきっと直ぐに眠りに落ちる。
 意識と無意識の曖昧な狭間。その中を漂っていると、やがて耳に聞こえてくるものがあった。
「雨か……」
 呆と呟く自らの声すらもどこか曖昧だ。
 遠く雨の雫が砕ける音が聞こえる。しかし確実に勢いを強めており、見えない暗雲をアズールの頭の中に描かせる。だがそれすらもアズールを眠りに誘う子守唄にしか過ぎなかった。
 今のアズールにとっては明日が来ることだけが望みだった。今日から続く明日はきっと素晴らしいものに違いない。何の不満もない日々が続くに決まっている。
 長い戦いだった。悲しいことや辛いことばかりだったかもしれない。
 それでも今日に至ることが出来た。戦い方すら忘れてしまうかもしれない日々だ。
 ああ、と万感の思いが溢れる。
「幸せだ」
 『本当にそうか?』
「――!?」
 目を見開き、ベッドから跳ね起きる。部屋の中を見渡すが、誰の姿もなく星の明かりに照らされる闇ばかりがそこにある。
 気のせいか……?
 自問するが、違うと自答する。眠りに落ちる寸前の緩やかな鼓動を続けていた心臓は早鐘のように鳴り続け、煩いほどの血流がこめかみを走っている。
 確かに声は聞こえた。今もその言葉はアズールの頭の中にあり、あれが夢ではないと自分が知っている。
「ふ――」
 呼吸を改め、自らの気配を極力殺し、周囲の気配を探る。アズールの感覚に頼ったものだが、幾多の戦いで鍛えられた感覚は未だ錆付いてなどいない。何よりも探知魔法とは違い、これならば相手に察知されることもない。
 邸の中を探り、全ての位置を把握する。ほぼ全ての住人の感覚は覚えている。その中に不審なものはない。バーキアの隣にある感覚は微妙だったが、今までも邸の中で何度か感じたものだ。恐らくはバーキアの奥方だろう。場所は先ほどまで晩餐をしていた部屋だ。
「…………」
 取り敢えず不審な反応がなかったことに息をつく。
 夢だったのかもしれない。
 そうと言い切ることは出来ないが、飲み込むしかなかった。
「全く、年寄りには辛いって言ってるくせによ……」
 不安を忘れるように口に出す声は意識して軽くした。
 もう眠気は吹き飛んでしまった。バーキアもいるのならば少し付き合ってもらおう。奥方の調子がいいのならば挨拶も出来るかもしれない。
 一応は深夜だということもあり物音を立てずに静かに歩く。もっとも邸の毛足の長い絨毯は足音を殺し、防音も配慮されている壁は少々の騒ぎは通さない。
 だから声が聞こえたということは、それほどの大音声でしゃべっているということだ。
 アズールの耳に届くのは少し枯れた女性の声だ。多分は奥方のものだろう。
 バーキア相手にこれほどに声を荒げるというのは余程のことだ。邪魔しては悪いと思い、通り過ぎようとする。外は雨だが、何もかも洗い流してくれる雨は嫌いではない。気分転換に眺めるのもいいだろう。
「何故彼をここに置いておくのっ!」
 聞くつもりはなかった。だが、通り過ぎようとした扉の前で足は止まってしまう。
「もう十日よ! どういうつもりなの!?」
「彼は僕の親友だ……見捨てることなど出来ないっ」
 彼というのは考えるまでもなくアズールのことだろう。
 流石に長居をしすぎたのかもしれない。働きもせずに財を貪っているだけの男にいい思いはないだろう。
 奥方には嫌われてしまったのだろう。面通しをさせてもらえなかったのもそのためかもしれない。
 幸せだと思っていたころに冷水をかけられたようで少し寂しかった。
 夢から覚めてしまったのかもしれない。
 現実は甘くないと知っていたはずなのに。
「彼を直接勇者だったと知っている人はもうほとんどいないわ」
 離れるきっかけを失ってしまうと、次の言葉が飛んできていた。
「だから、彼を庇うあなたが疑われている。いずれはあの子達にまで嫌疑が及ぶかもしれないわ!」
 それは全く考えもしなかった言葉だった。
 何を言っているのか分からない。
 バーキアが疑われている?
 双色の一、赤橙の勇者、センチアレス王国筆頭魔導師、バーキア・ホーキンスが?
「しかし――」
「しかし何だというの! 友達だから親友だから全てを見過ごせって!?」
「アズールがいなければ僕たちの今日は無かったんだぞ!」
 普段は声を荒げることのないバーキアが思わず声を荒げてしまっている。それほどの状況であろうとも、まだアズールの理解が追いつかない。あるいはそれほどの状況であるからこそ、理解が追いつかない。
「彼が――アズールがっ! あの仲間の誰もいない荒れ果てた世界に一人残り、戦い続けてくれたからこそ僕たちの今日はあるんだ! たった一人で! 負けることの許されない戦いを背負って! それなのに平和となった今は彼を切り捨てようというのか!」
「分からないわよ! あの人は確かに勇者だったのかもしれない。けど! 彼がいない五十年を戦い続けてきたあなたがどうしてそんな目にあわなければならないのよ!」
 だがそれ以上に奥方の剣幕は、普段を知らないアズールでも尋常なものではないことが分かるほどだ。
「こんなことなら……! あんな人、戻ってこなければ良かったのにっ!」
「なんて事を言うんだ!」
「だって――!」
 そしてバーキアを不利にしている原因がアズールそのものだと言っている。
 何を見過ごすのか分からない。アズールは何もしていない。罪に問われるようなことは何もしていないはずだ。
 だから、
「あなたが門に張った結界を易々と破って! 人外の存在を阻む防壁が反応して! 探れば私でも微かに感じる人ではない気配! それでもまだあなたは彼を庇うって言うの!?」
 その弾劾の言葉は完全に不意打ちを果たし、平常心というものの一切を抉る。
 かつての勇者の心さえも容易に揺さぶった。
「ッ!?」
 動揺して気配が漏れる。咄嗟に気配を殺すが遅い。バーキアが即座に精査探知を実行。同時にアズールは魔力により身体能力を一気に強化すると共に重心を移動。探知魔法がアズールの反応を確認。アズールの足が身を飛ばすための面を完全に捉える。
「アズール!」
 バーキアが叫んだときには、もうアズールは邸を破壊しかねない勢いで外へと飛び出していた。雨の降る夜の大気を貫くように身を飛ばしていく。居並ぶ家屋の壁と屋根を踏み壊し、粘つく大気の壁さえも割り砕き、全てから逃げるように一条の紫紺が王都の夜を裂いていく。
 一気に外壁まで到達。そのまま乗り越えようとすれば防壁が阻んだ。
「――ッ」
 しかし関係ない。宙をもう一度蹴れば、その勢いを以って突き破った。
 街の外を出てからも何も考えずに走った。世界の果てまでも走って行きたかった。きっとよくないことが追いかけてきている。追いつかれてしまえば全てが終わる。だから逃げるのだ。
「アズールッ!」
 そんなことが叶わないことは知っていた。逃げ切れるはずがない。
 何故ならば全てはアズールの中に原因があるのだから。
 バーキアの邸からここまで駆けた、たったそれだけの時間。
 この短い僅かな時間の中でアズールは自らの力に気づいていた。気づかないはずがない。
 それはアズールが感じ続けていたものだ。何故自分で気づかなかったか不思議で仕方がない。逆にそれは当然なのかもしれない。それほどにそれはアズールにとっては自然だった。
 人外の獣の力がその身の内にあることが。
 一度感じてしまえば間違えるはずもない。忘れることなど出来ない。
 あの時対峙した獣の王の力だ。
「バーキア……」
 止まり、振り返ればそのとおりの姿がある。雨の中を濡れることも厭わずに追ってきた友の姿だ。
「アズール……」
 その真に優しい声が辛い。思わず嗚咽と共に涙が零れそうになる。
 もうアズールにも分かっている。その身の内にその力があるという意味が。
 人ではなくなってしまったのだ。
「……どうやらお前に迷惑をかけてしまったようだな」
 理解してしまえば全てが納得できる。
 死ぬほどの傷を負ったはずなのに今はもう一つとして傷跡さえ無い身体。
 バーキアと再会したときの驚きは風貌の変化だけではなく、その内の力に気づいたからだろう。
 街中で感じた視線は気のせいではなった。その通り見張られていたのだ。
 人の脅威と成ったものの動向を探るために。
「再会したときから気づいてたのか?」
「……確信を持ったのは今だよ」
 そしてアズールを庇ったバーキアが国内で立場を危うくしている。力を隠さずに王都を跳梁したのだ。最早隠し通せるものではない。
 バーキアは既に嫌疑がかけられているに違いない。
「今の女王は昔の君を知っている」
「ああ、話には聞いたよ。まさかあの時の姫が女王だとはな」
「彼女はこの国の最高権力者だ。僕は君の事を保証し、女王に後ろ盾を得ようとした。そうすれば面と向かって反発する輩はいなくなる」
 この十日間。バーキアが忙しく城に詰めていたのはそのためだ。全てはアズールのために力を尽くしていてくれたのだ。
「そのはず、だった……」
 だから悲しくなった。殴りつけるような雨音に全ての音を消して欲しかった。
 戻ってきたのはバーキアの隣に再び立つためだ。そのはずだ。今もその気持ちには一つとして偽りはない。
 しかし実際はバーキアに余計なものを背負わせてしまっている。
「だけど、平和を手に入れたこの国には外だけではなく内に敵がいる」
 知っている。バーキアの権力がこれ以上拡大しないように足元を崩そうとしている一派がいる。国内を二分するどころか、下手をすれば乗っ取られてしまう可能性もある。どちらも国のためを思ってのことなのだろうが、実際は他国に付け入る隙を作るだけだ。
 だからバーキアは足元を崩されるわけにはいかない。必死に国を守ろうとしている。
「僕は頑張った。……頑張ったつもりだ」
 けど無理だった。
 雨音はその言葉を消してくれなかった。聞きたくない言葉がアズールの耳に届く。
「そうか……」
 もうそれしか言えなかった。
 それから耳に痛い沈黙の後に、バーキアは重たい口を開いた。
「僕は……国を守る」
 宣言。そうでなければ宣告だ。
 見ていて痛々しいほどに顔を歪めながらバーキアは言葉を作る。
 ただ決して言い訳も説明もしなかった。
 何を言おうとしているのか分からないはずがない。
 バーキアが失脚すれば国が乱れる。バーキアが守りたいものを守るためには国が必要なのだ。国を守るためには足元を崩されるわけにはいかず、変わらず国に有益なものであることを示さなければならない。
 そのためにはかけられた嫌疑は拭わなければならない。
 そんなことは子供でも理解できる。
 アズールに理解できないはずがない。
 二人は友であり仲間だったのだから。
 今はどうなのだろう。それは分からなかった。
「僕は、――君を殺さなければならない」
 それこそが最も単純にして有効な証左となる。
 それ以上に何が必要というのだろう。きっと何も必要ないのだ。
 遠く王都の方から何かがこちらに向かってきている。恐らくは騎士団だろう。アズールを、もしくはバーキアごと討伐しようとしているのだ。国に害をなすものとして。大義名分によって邪魔な存在を排除するために。
 それはバーキアの望むことではない。
「ハイドラスト」
 短く一言。その名を呼べば虚空より顕現し、バーキアの手に握られる。
 雨の幕の下りる夜の中であろうと燦然と輝く赤橙の力の結晶。バーキアの想いが形を得た杖、ハイドラスト。その赤橙の色だけは五十年の時を経てもかつてと変わらず綺麗だった。
 あの頃からバーキアは何一つ変わっていない。それが何よりも嬉しく、この状況でアズールに笑みを作らせた。
 変わってしまったのはアズールなのだ。
「やはり時の流れは変えられないな……」
「僕が過ごした五十年と君の失った五年。全て等しく過去へと押し流し、嫌でも現在は未来になる」
「そうだな」
 全くその通りだった。そんな世界で誰もが生きているのだ。
「何と言ったらいいのか分からないけどよ。きっとこう言うんだろうな……」
 思考が乱れてまとまらない中、それだけははっきりと形を持って口から零れる。正直にとも偽ろうとも思わずに言葉となったからには、きっとそれが純粋な心の反応に違いない。
「残念だ」
 純粋というには複雑で、複雑ではあるがその想いは純粋に一つに集約されすぎる。
 バーキアの守りたいものを守るためにはアズールはここにはいられない。バーキアはアズールが守れなかったものをずっと守り続けてきたのだ。親も子も仲間も友も、見ず知らずの誰かでさえも。
 バーキアの背には余りにも多くのものが託されている。
 アズールただ一人を守るために他の全てを投げ打つことは出来ない。
 何故ならばもう昔とは違うのだ。勇者と呼ばれる前のただの二人には戻れない。
 何故ならばバーキアは人間なのだ。たとえそれを望んだとしても、全てを守ることは出来ない。
 誰が悪いわけでもないのだ。きっと。
 そしてどうしようもないのだ。
「国に害をなすものを僕は処断しなければならない!」
 振り切るようにバーキアは叫ぶ。
 構成が組まれ、術式が紡がれ、力が編まれ、一つの意思がアズールへと向けられる。
 放たれる意詞は一つ。
「国を……去れ……」
 去ってくれ、とは言わなかった。
 そうして放り投げられたのは旅装だった。旅に必要なものはほとんどある。
 つまりはそういうことなのだ。
 それが後にどういう結末となろうと、バーキアは自らの意思で選択した。最大限の譲歩などではなく、最大の決意。だからこそバーキアは最後までその選択に殉じるのだろう。
 それはバーキアの変わることのない甘さゆえのものかもしれなかった。
 アズールが生きていると知られれば今度こそ失脚の要因となる。
 そんなことは全て理解した上で、それでも選んだのだ。
「……証拠が必要だろう?」
 折角手入れをしてもらったことを思えば少しだけ惜しかったが、あっさりと切り落とした。
 首の後ろで切り、雨で濡れてまとまった髪を投げ渡す。
 無くなってしまえば首の後ろが寂しいが、これでかつてと同じだ。
 違うのは、もう勇者ではなく、友に背を向けなければならないことだ。
 バーキアは一言として謝罪を口にしなかった。自らの選択を一つとして後悔しないために。自らの現在を肯定するために。
 アズールもそうやって生きてきた。
 そうであるからこそアズールもまた選択をしなければならない。
「じゃあな」
 誰かの悲しむ姿を見たくなかった。誰かの嘆く姿を見たくなかった。
 その想いを抱いて戦ってきたのだ。その果てにこの現在を得たのだ。
 もう二人が並び立つことは出来ない。
 背を向ければバーキアの表情はもう分からない。雨音は今度こそ全ての音を掻き消してくれたようでバーキアの声はもう聞こえない。
 けど、と最後に思う。
 今だけは悲しんで欲しかった。

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