双色の勇者

いつか果たされる約束
果たすために全ての力を尽くし
その先に何があるのか

 呆然と時間の経過すら曖昧なままアズールは夜の世界を彷徨っていた。どこに行けるかどうかも分からず、どこに行こうとさえも思えなかった。思考のほとんどは停止していた。
 ただ一つ思うのは、ここじゃあまずい、ということだけだった。
 国がバーキアに対してあれだけで納得するかどうかは分からないが、もうアズールにはどうすることも出来ない。せめてこれ以上バーキアの足を引っ張らないようにするだけだ。
 バーキアは決意と共に決断した。ならばきっとやり遂げる。アズールが守ることの出来ないものを守り続けていたのだから。そしてこれからも。
 だから後は自分だけだ。
 もう後は自分しか残されていなかった。
 雨が作る音のある静寂の中を彷徨って、その果てに王都から離れた森にたどり着く。どれだけの距離を離れたか分からないが、森の中奥深くに入ってしまえばもう気にならなかった。
 ここならば問題はないはずだ。
 確かめなければならない。
 バーキアの前では確かめることはできなかった。それは恐らく結末を予感しているからに過ぎない。それでも一抹の希望を妄信した。
「ネトレー」
 声に出さずともいいが、敢えて言葉にした。それほどに最後の望みに縋り付きたかった。
 名に応えるようにアズールの手の中に確かな重みが生まれる。それは久しぶりに握るにもかかわらず、それでも以前と全く変わることなく自らの手に馴染む。
 明かりの一切ない闇の中にその姿を浮かび上がらせるのは、牙を模したような大剣だ。バーキアの杖と同じく、共に戦場を駆けたアズールの想いそのものだ。アズールの心が折れない限りはその刃は不屈にして不尽。アズールの想いが顕現したその剣はある意味ではバーキア以上の相棒だ。
 今でも鮮明に思い出せる。薄っすらと紫がかった白刃は自らの誇りでもあった。紛れもなく戦うためだけの刃でありながらも高潔を現したと称される色は、勇者としての誉れの一つだった。
「――――」
 その色はもうどこにも見えなかった。
 漆黒の世界の中でその暗さを際立たせる黒紫。自らの紫紺よりもなお暗く、かつての高潔の色などそこには一つとしてない。
 自らの感覚よりも、友の言葉よりも、何よりも雄弁に剣は現実を物語っている。
 アズール・メーティスはもう変質してしまったのだ。
 想いを顕現した剣である以上、これ以上の証はない。自らの変質に疑問を抱きもしなかったということは、もうそれが自分にとって当たり前となっているのだ。
 ああ、と慟哭せずにはいられない。
 刃の色はまるであの獣の王ではないか。
 そして思い出せ。バーキアの張り詰めた雰囲気に戦いの匂いを嗅ぎ取り、そして力を解放しようとした自分の奥底に眠るものを。まるであの獣のように戦いを望んで得ようとする自らの本質の一端を。
「もう俺は……昔の俺じゃあないのか……」
 再度の嘆きには全く意味がないと分かっていた。それでも嘆かずにはいられない。
 もうきっとどうにもならないのだ。
 もう人ではないのだろう。あれだけの距離を疲れさえ見せずに走り抜けた。防壁に反応した。何よりも自らの内に人外の気配を感じる。
 何もかもがそうだと告げている。
 危惧は正しい。だからこそバーキアは考えたに違いない。
 殺すかどうか。
 後のことを考えれば殺してしまえばいいのだ。後顧の憂いなど根こそぎ絶ってしまえばいい。大言壮語を掲げるのならばそうしてしまえばよかったのだ。
 だから甘い。
 だからこそ甘い。
 その甘さゆえにいつか寝首をかかれるとも、後ろから刺されるかもしれない。それがアズールの友であるバーキア・ホーキンスという男だ。
 しかし。
「仕方が……ないよなぁ……」
 バーキアにならば殺されてもよかった。いや、他の誰でもないバーキアにこそ殺して欲しかった。終わらせて欲しかった。
 ただ、アズールは殺して欲しかったが、バーキアは殺したくなかったのだ。
 恐らくは自分が同じ立場に立ってもアズールはバーキアを殺すことは出来ないだろう。
 理解すれば頬を伝う熱に気づいた。
 だから、自分で自分を殺すしかない。わざわざバーキアの手を汚させる必要もない。
 自らの幕は自分で引く。
「何故なんだよ……!」
 地に膝をつき、突き立てた牙に縋り付きながらアズールは叫ぶ。
「こんな思いをするのならば! こんな思いをさせるのならば……!」
 あの時に死んでいればよかったのだ。獣と一緒に死んでいればよかったのだ。生を望まず、約束など踏み倒してしまえばよかったのだ。
 そうすれば勇者として死ねた。
 そうすれば人として去れた。
 そうすれば友として終われた。
 こんな悲しみを知らずにすんだ。
「ちくしょう……っ」
 誰もいないからこそ取り繕えない。弱さを押さえつけ、強さを演じられない。
 無様と自覚できる姿を誰にも見せることがないことを幸いと、そして悲しいと思いながらアズールは自らの弱さを吐き出していく。勇者として生きてきて、決して曝け出せることのなかった自らの本質を。
 自らの弱さを隠し、強さを求め、想いに手を伸ばせば、いつの間にか多くのものを背負っていた。紛れもない自分であるにもかかわらず、最早そうなってしまえば自分で自分をやめることさえも出来なかった。
 勇者。
 その役は余りにも重たかった。何度投げ出そうと思ったかも分からない。人々の期待を重圧として背負わされ、まるで呪いのようにその身を縛り付ける。
 しかし、それでも勇者であり続けたかった。
 自らがもうその役を降りてしまったことを申し訳なく思いながらも、バーキアが酷く羨ましい。未だに自らの望む場所にいるのだから。
「ああ……」
 だが、そんな思いも全てはもう意味がない。
 嘆きを抱いて死んでいくのは酷く無様だが、この場にはその無様を笑う誰かさえもいない。
 この場にいるのは死に損なった勇者の成れの果てだけだ。
 元は輝く銀色だった鎖も暗銀の色となっていたがもう心は動じなかった。鎖が伸び、アズールの周囲の空間ごと縛り付けるように引き絞られ、空間が軋みと共に固定される。
 殲滅領域確定。
 内と外は完全に遮断され、内外の変化は伝播しない。この中で力を暴発させれば間違いなく死ねるはずだ。後にはもうきっと死体すら残らないだろう。
 『死ぬのならば――』
 そう思ったとき、確かにアズールのものではない声が響く。
 『死ぬのならば、完全に死んだほうがいい』
「な――!?」
 思わず術式を中断する。聞き覚えのない声だ。周囲には何の気配もない。
 しかし、一度だけ聞いたことがある。眠りに落ちようとするアズールの意識を叩いたあの声だ。
 その声が自らの内から聞こえた。
 何よりも、自らの内で自らの意識とは別に暴れだしそうになる力には覚えがある。
 獣の王。
「まさか……!?」
 『驚くべきことではないだろう。あの場には我と貴様しかいなかった』
 思わず口に出していた声に、内なる声は反応していた。
 確かにあの世界にはもうアズールと獣王しか残されていなかった。他の誰もいない世界での一騎打ちはアズールの内に深く刻み込まれている。
 だが、その事実を信じるには余りに突飛過ぎる。
 『貴様があの時我の前に立った時には既にもう人の身ではなかったはずだ。我が同胞の血をその身に浴び続け、怨嗟の呪いを受け続けたのだ。それでもなお生きていることが不思議だが、生きているのならば貴様は最早人の身ではないということだ』
 勝利を求める執念がその身を生かした。
 生きて約束を果たすという想いがその身を生かした。
 生に対する執着が人の理を超えさせた。
 『そうでなければ、たとえ傷ついていたとしても我を打倒できるはずがない。仮にそれだけの力があったとしても、その身が耐えられないはずだ』
 たとえその身が人のものではなくなったとしても。
 それだけの想いがあったことを否定できない。
 『そして、あの戦いでお互いがお互いの血を浴び続け、勝利をひたすらに欲し、力の渦の中にいた。その中でやがて貴様は我に、我は貴様に近づき、同一のものとして二つが存在することになった』
 アズールの脳裏に呼び覚まされるのは二頭の獣による決着の瞬間だ。
 アズールが口に銜えたネトレーを獣王ののど笛に突き立て、獣王がアズールの右半身を喰らった。
 間違いの一つとしてない相打ち。
 だがしかしアズールの内にあった、生きて約束を果たすという想いが生かした。
 無意識の内に獣王の力を取り込んだのだ。同一のものとして存在していた以上、二つが一つになることに何の問題があるはずも無い。だからあの場には死体が無かったのだ。
 果たして真に同一のものと成ったのだから。
 『貴様は勝利を確信し、我は敗北を得た。だからこそ我は貴様の中にいる』
 その言葉が真実であるというのならば。
「……この俺が自らの死を認めれば、支配権が移るとでもいうのか?」
 『その通りだ。だから死ぬのならば完全に殺すといい。今の貴様の肉体も力も我にとっては申し分のないものなのだから』
 嘘、ではない。意識すれば獣王の考えが全くの本当だと理解できる。何故ならば同一なのだ。分からない理由がない。
「…………」
 獣王の再臨。それだけは何としても防がなければならない。
 自らの死を意識することなく死ぬことが出来るだろうか。殺すことが出来るだろうか。
 恐らくは不可能だ。
 自らの死を意識した瞬間に完全に死んでいなければ獣王が顕現する。
 もう自分では死ぬことさえも出来ない。
 思いに従うように鎖は中に溶けて消える。
「……どうして俺にそれを教える?」
 『我は貴様に敗北した。そのことに一切矛盾も不思議もない。我が弱く、貴様が強かった。そしてそれに相応しい結果があっただけだ。だから我は死を受け入れた。そして我には死んでまでもやりたいことはない』
 その余りの潔さに驚く。
 だがアズールもまた同じだ。後悔を残さないように戦い、生きてきた。たとえ最悪の状況であろうとも自らの力の限りを尽くしてきた。
 いくら現在を嘆こうとも、過去には一つとして後悔がない。
 それだけは胸を張って誇れる。
 獣王もまた同じなのだろう。
 『――しかし、今一度生を得るというのならば別だ。我は再び世界を狩場として駆けよう』
 上下関係が成立している。あくまでこれは獣王の誠意とでも言うべきものなのだ。
 だからこそどこまでも真実である。
 『あるいは貴様の生への執着が薄れたとしたら我が顕現する可能性もあるな。我としては貴様が人でなくなり、人の世界でどう生きていくか興味があるから積極的ではないが、そうなったのならば遠慮はしない。努々気をつけることだ』
 もっとも獣王の力は常に戦いに飢えている。獣王の考えがどうであろうと呪いと力を宿している限りは意味がないのかもしれない。
 そうして獣王は眠ったのか、それ以上は何も言わなかった。
 自分勝手なやつだ。
 だが、それももう自分なのだ。
「ああ」
 死ぬことさえも出来ない。
 最後の安息さえも自らの手で放り出さなければならない。
 嘆く気力さえももうなかった。
 何故ならばアズールに後悔がない。常に全力で生きてきた。何度やり直そうとも同じ結末に至るに違いない。誰もが嘆かない世界を求め、そのために力を尽くしてきたのだ。何度絶望に打ちのめされても、立ち上がって戦ってきたのだ。
 後悔は一つとしてなく、その果てに至った現在にアズールはいる。
 それが、これか。
 何を悔やめばいいのかさえも、もう分からなかった。
 ただ絶望に塗り潰され、世界が閉じるのを最後に感じた。

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