双色の勇者

いつか果たされる約束
果たすために全ての力を尽くし
その先に何があるのか

 風の先端を行き、アズールは夜の世界を駆ける。
 門はセンチアレス王国の国境付近にあり、目指す場所は王国の中心だった。そのために森を走破し、村を飛び越え、大地を踏破していった。後のことなど何も考えていない。この世界の空気が肺に入り込むたびにアズールにそうさせるのだ。一つの不思議も無く身体もまたそれに応えた。
 息は乱れず、疲れも感じない。ただ夜気だけが気持ちいい。それだけが全てでよかった。
 だから存分に世界を感じることが出来た。
 世界には脅威を感じ取ることは出来なかった。
 大気の壁を割り砕きながら、アズールは嬉しくなる。少なくともバーキアは良くやってくれたのだろう。これだけの距離を走りながらも、一つとして人の脅威にぶつからないのは以前では考えられないことだ。
 門は王国とさらに二つの国と隣接する国境付近にあったが、確かに王国の領域内にあり、開いた向きも王国へと向いていた。
 当時。それはアズールとバーキアが勇者と呼ばれる五年前であり、未だ人の脅威がありふれた人外だけだった時を言う。
 当時、突如として門は出現し、開いた。勿論何の前触れも無い。門とはあちらとこちらを隔てるものではなく、つなげるものだった。ならばこちらには突然の出来事であっても、向こうでは待ち望まれたことなのかもしれない。
 一斉に解き放つように闇色の体躯を持つ獣が王国を蹂躙した。それは明らかに人の敵であり、そしてまた人外の敵でもあった。獣は人と人外の区別無く獲物とし、自らの一派以外を全て狩りつくす勢いだった。
 正しく世界は狩りの場だったのだろう。向こう側の世界を見たからこそ分かる。向こうには最早何も無かった。獲物も無ければ敵もいない。だからこそ、外に求めたのだろう。きっとそうやって生きてきたのだ。自らの思うままに世界を平らにしようと。
 そして、人よりも先に獣と衝突した人外は狩られるか場を移すかのどちらかでしかなかった。人外は個としては強力であっても、統制された獣の狩には及ばなかった。数の暴力によって獣は完全に狩の場を奪い取ったのだ。
 人外がいなくなり、本格的に人が爪牙にかけられるようになる。特定の住処を持たない人外と違い、人間は簡単に住処を移すわけにもいかなかった。人には人の領分があり、それを簡単に超えることは出来ない。何よりもそのころには既に獣は王国外にも広まっていた。
 意思の疎通は不可能。というよりも相手は一方的に人を獲物と見なしている以上、交渉の余地はなかった。食卓の上に並んだ肉や魚に耳を傾ける道理は無い。もうそのときに至って道は二つしか残されていなかった。
 座して死ぬか、戦って死ぬか。
 それほどに獣と人との戦力は絶望的だった。一体の獣を打倒するためにどれだけの戦力を投入し、どれだけの犠牲の果てに勝利を得たのかも分からない。獣は強大であり、人は脆弱だった。
 それでも、死を待ち望むようなものは一人としていなかった。国は正規の騎士団だけではなく、志願兵による一団も結成し、獣との徹底抗戦を選んだ。無論激戦という言葉では足りない戦いだった。あるいは戦いというものですらなかったのかもしれない。だが、誰もが戦った。多くのものたちが傷つき、倒れ、そして死んでいった。
 しかし、一人として諦めなかった。誰もが自らの大事なものを守るために必死だった。
 その戦いの中、それでも生き残るものはいた。決して多くのものではなかったが生き残り、そして生き残り続けた。数々の戦いが彼らを淘汰し、鍛え上げ、終には一つの高みへと押し上げたのだ。
 その最高峰こそ、勇者と呼ばれる二人だ。
 アズール・メーティスとバーキア・ホーキンス。
 紫紺の勇者と赤橙の勇者。
 双色の勇者。
 その二人の勇者を旗頭に人の反撃は始まる。戦いの中での死傷者の数が減りだし、安定した勝利を得るようになってからは人の領域を獣から次々に取り戻し、やがて十分に戦力を整えた後に向こう側へと初めて人が打って出た。少なくともこれ以上の後続を完全に断つために。門の塞ぎ方が分からない以上、他に方法はなかった。
 戦いは悲惨なものであると誰もが知っていたが、きっとそれ以上に悲惨で熾烈だった。
 もう次が無いことは明らかであり、勝たなければ終わってしまうことは確定していた。他国がまだ対応に追われている以上、これ以上の戦力はもうない。後には退けず、前には強大な獣たちが待ち構える。
 死ねば、世界はより多くの嘆きを伴う死に満たされる。それだけが揺るがない事実だったからこそ、誰もが諦めを踏破し、決意と共に戦った。友の死の上に一つの勝利を立て、仲間の犠牲の果てに一つの勝利を築き、敵の屍の果てに求める勝利を得るために。
 きっとその先がここなのだろう。
 アズールはそう思う。この現在に至るための礎の一つとなれたのならばきっと幸せなことだ。そしてそれを感じ取れることが何よりも幸せだ。
 自分たちの続きがこの世界にはあるのだから。
 しかし、と不安もある。
 この世界には自分の続きがあるのか。
 かつて交わした約束。それを果たすことが出来るのか。
 今も待っていてくれるのだろうか。
 視界の中に目指していた姿を見つけてからは、その不安が胸を占めるようになった。
 夜天の下、地上に溢れ出る光が見える。周囲を囲う外壁の淵から零れ落ちるように天へと向かって湧き出す光の泉。
 王都だ。
 人の作り出す光に満ちる場所。大小様々な街の光が夜の中にも溶け出し、アズールをも淡く照らす。
「ああ……」
 言葉が知らず零れていた。
 光には温度も圧力も無かったが、しかし確かに暖かさを感じ抱きしめられるような思いを得た。今も変わりなくあるその姿がアズールを安心させてくれる。
 ここはあそこなのだ。
 かつて自分たちがいた場所だ。
 ようやくと言葉が胸の中で生まれる。形のある確証を得て、帰ってきたと改めて思う。
 帰ってこられた。
 あちらとこちらの門を超えたとき以上に胸の鼓動が激しくなる。心臓が破れかねないほどの早鐘は正しくアズールを急かしていた。早くと急かされるその一方で、しかし足は今までの走りを忘れたかのようにゆっくりと一歩ずつ確かめるように歩いた。
 草を踏む感触を改めて感じる。風に乗って届く街の匂いが懐かしい。人の喧騒が耳に届けば、もうすぐそこだ。
 自分もそこに行きたい。
 思いが身体を逸らせ、門へと近づくと、
「ッ!?」
 大気が感電したかのように爆ぜ、痛みと共につま先が弾かれた。
 結界防壁だ。夜だからか、侵入を制限しているのだろう。それも対人外用のものだ。剥き出しのつま先は油断していたからか焼け爛れたようになっている。力を持たないものが触れればそれだけで命を奪いかねない。つまりはこれが当然のものとなっている世界なのだろう。
 時代は変わったらしい。
 知らなかった自分が悪いのだ。破れないことも無いが、無茶をする必要も無い。面倒ごとに自ら関わるのは暗愚のすることだ。それに、と思う。外壁の上からは視線も感じている。防壁が反応したということは誰かが事態を確かめに来るはずだ。
 それも外敵から王都の安全を守ることの出来るだけの力を持つ誰かが。
 そして、それほど待つことなくそれはやってきた。
 当然のように門は開かず、防壁を挟み、外壁の上にその姿はある。
 小隊規模の騎士たちを伴い、その先頭に立つのは初老の魔導師だった。見下ろす視線と見上げる視線が交錯し、夜の中でも互いの姿を確かに捉える。
 相手にこちらの姿がどう映るかは考えたくも無い。半裸というよりも全裸に近い格好で血と泥に塗れ、髪と髭を伸ばし放題の男だ。まず間違いなく不審人物だろう。これで手厚い待遇を受けたら逆に疑ってしまうほどだ。
 一方、相手は一目で上等と分かる白と赤橙で染め上げた導師服を身に着け、身の丈ほどもある杖を構えている。だが、老いを隠せない顔に浮かぶ表情は警戒よりも驚きの色のほうが近かった。誰何の声すら失っているようだ。
「随分と……老けたな」
 だから、アズールが先に言葉を作った。
 老いによってくすんでしまっているが、夜の闇の中でもなお色鮮やかなその赤橙の髪と瞳を忘れるはずが無い。驚きに目を見開く、その仕草は年老いても変わらないものだ。
「まさか……」
 その先に続く言葉を恐れるように、しかし確かめるように魔導師は言った。
「アズールなのか……!?」
「まさかとはひどい言い草だな、バーキア」
 言葉と共に口の端に笑みを作るが、相手にどう映るかは分からない。茂みのように濃い髭のせいで口の動きも分からないのかもしれない。
 何よりもアズールが不審人物であることには変わりない。騎士たちは未だに警戒の色濃くこちらを見ており、隠してはいるが既に呪紋の詠唱を終えたものもいる。アズールと騎士たちの間にあるのは緊張だ。不審な人物が不審な動きをすれば即座に対応に入られる。
 だが、その緊張の空間の中を構わずに動くものがいる。
「バーキア様!?」
 騎士たちに呼び止められながらも外壁の上から身を踊らせ、容易に防壁を越えてアズールへと近づく。いつの間にか様付けかよと思いながらも、その先を待てばバーキアはさらに距離を詰め、互いの息すらも感じられる場所で止まる。
 年をとって背が伸びたのか昔は自分よりも低かったはずの目線が今は同じ高さにある。
「あんまり男と見つめ合うのは趣味じゃないなあ、俺」
「安心しろ。僕もだよ」
 だけど、と杖を離してさらに一歩が詰められる。胸がぶつかり背後に倒れそうになるのを堪えれば、背に腕が回され、抱きしめられるので、受け止めるように抱きしめ返す。バーキアの身体は戦士として引き絞られた体躯であり、感触としては気持ちのいいものではない。だが、それをもっと確かめようと腕に力を入れ、より強く抱きしめる。
 その感触を確かのものだと確かめたかった。
 これが夢ではなく現実なのだと。
 本当に帰ってきたのだと。
「遅いぞ……っ」
「悪い。きっと道に迷ったんだよ」
 ああ、とそう思う。
 遠かった。
 誰にとっても遠かったのだろう。アズールが戦いの中にいたようにバーキアもまたそうだったに違いない。老いが身体に現れるほどの長い時を戦い続けてきたのだ。
 しかし、あの約束があったからこの場所を目指せたのだ。諦めに膝をつこうとも再び立ち上がることが出来たのだ。目指す場所があるからたどり着けた。
 今ここに約束を果たすことが出来るのだ。

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