双色の勇者

いつか果たされる約束
果たすために全ての力を尽くし
その先に何があるのか

「あー……」
 何の説明もなく湯殿に叩き込まれたが、とにかく身体を洗えということだと理解した。
 頭から湯を浴びれば、思わず声が漏れてしまう。頭から顎へと滴る湯の雫は瞬く間に血と泥の汚れに染まって落ちていく。水でさえ貴重な資源であるのに、湯浴みまでできるとなるともうどれだけの贅沢かはアズールには想像もできない。ただ折角だからと存分に堪能することに躊躇いはない。
 湯殿は一般家屋の一部屋程度の大きさを持ち、湯を溜める槽が入り口から入って右側にあり、左側には身体を洗うための場所が作られている。一人二人程度ならばこの程度の大きさも必要ないのだろうが、恐らくは魔方陣を敷設するために必要な大きさがこの程度だったのだろう。
 アズールは魔法使いとしての知識は少なく実践派であるために術式の詳細が分かるわけではないが、その意図しているところはある程度把握できる。水を集めて湯に変え、消費した水と汚れを分別し、再び湯に変えているのだろう。常時起動している魔方陣にそれを準備するだけの手間と実行に移す労力。相当な贅沢だ。
「ああー……」
 もっとも、それを知ったところでアズールには関係がない。バーキアが用意し、アズールのために開いてくれたのだ。使わねば意味がない。何よりも一度この身体の疲れが解れるような感覚を得てしまえば、やめることは難しい。湯を浴びるだけでこれほどの快感なのだから、浴槽に入ればどうなるのか。早く入りたいが、汚れを落とさずに入るのはまずい。浴びるだけで落ちる湯は黒く変色しているのだ。わざわざ汚す必要もないだろう。
 桶で湯を持ち上げ、また頭から浴びる。その度に汚れと一緒に何かも落ちていきそうな感覚を得る。それが何なのか分からないままに瞳が涙を流していたことに気づく。
「あれ……?」
 頬を伝う熱さが湯とは違う。何が原因なのかも分からないままにアズールは泣いていた。
 女の涙はどうしていいのか分からないが、男の涙は見て楽しいものではないと分かっている。しかし、幸いにも自分では自分の泣き顔は見えない。湯殿は防音までされているのか外の音は一切聞こえない。逆に中の音も外へは伝わらない。だから湯に流すに任せて静かに泣くに任せた。
 目覚めてから一度も涙を流さなかったが、一人になって泣いたのは理由があるのだろう。再会を果たすまでに力を失うわけにはいかず、バーキアと再会してからは弱い自分を見せるわけにはいかなかった。だから今こうして安堵を感じ、緊張が解けて泣いているのだと思う。
 きっと安心して泣けるというのは幸せなことだと思う。
 戦いは終わった。誰も彼もがこの現在に至れたわけではないが、誰も彼もがこの現在を望んでいたのだ。喜んでいてくれるだろうか。自分は喜んでいる。喜んでいいものだと思う。
 生きていられるとも、生きて会えるとも本当は思っていなかった。獣王との戦いはそれほどに壮絶だった。両の腕が使い物にならず、最後は剣を口に銜えて戦った。自らの全存在を賭けた、あの血と力の交錯する闘争の恐怖と興奮と快感は忘れたくとも忘れることはできない。二頭の獣による死闘は今も身体の奥底に刻み込まれている。
「……興奮と快感?」
 ふと感じたものがある。
 口に出してみれば、違和感は確かなものになる。あの戦いにそんなものがあったのだろうか。何もかもが必死だった。獣の王を前にただ一人立ったときの恐怖を覚えていても、その先をはっきりとは思い出せない。しかし、身体は覚えている。
 何かがおかしい。何かがずれている。
 そんな気がするが、確証もない。
 長い間気を失っていたことによる弊害だろうと思い、髪を洗うために両手で髪をかき上げる。持ち上げた腕はもう湯によって大部分の汚れが落ちており、元の肌の色がようやく見える。
 そこに傷跡は無かった。
「!?」
 昔戦場で得た傷も、獣王との戦いで得た傷も、何もかもが無く綺麗な肌だった。慌てて両腕の汚れを全て落としたが、やはり傷跡は無い。消えるようなものではないはずだ。身体のほかの部位も調べてみたが同様だった。食いちぎられた腹の傷も、貫かれた足の傷も、引き裂かれた背の傷も、何もかもが無かった。
「どうなってるんだよ……?」
 何がどうなっているのかは分からないが、自分の身に何かが起きたことは確実だ。あるいは今も何かが起きているのかもしれない。
 バーキアに相談したほうがいいのかもしれない。だが、面倒ごとを持ち込むのも気が退ける。対等であるとはいっても、一方的に頼るばかりではいけない。何よりも、もう何事も無いのかもしれないのだ。下手に事を大きくするべきではない。
「失礼します」
「な――!?」
 そう思っていると、紺の侍女服を身に着けた侍女が突然入ってきた。
 情けない姿を見られたかと思ったが、背を向けていたので大丈夫なはずだ。それよりも先に女性に裸を見られたことが恥ずかしい。侍女は若く、うら若い女性に肌を見られた経験はアズールにはない。また侍女も湯殿だからか、服がぬれないように腕と足の袖を捲り上げており、健康的な色香が覗いている。
「ちょちょちょ――!?」
 結果として言葉がうまく出てこなかった。
「何ですか? アズール様」
 表情を変えずに尋ねられるが、その冷たい美貌も魅力的だ。侍女として一つの完成形なのではとさえも思える。
「じゃなくてっ!」
「はい」
「何でいきなり乱入されてるの俺!?」
「旦那様が、どうせ一人じゃ満足に洗えないだろうから洗ってやってよ、と仰られましたので」
「バーキア――!」
 股間を隠しながら叫んだが、しかし考えてみると特に問題があるわけでもないような気がする。恥ずかしいが、それ以上に滅多にできない経験だ。女性に背中を流してもらうというのはアズールの願望の上位に位置する。
 やってくれるというのをわざわざ断る必要もないだろう。
 台に座りなおし、侍女に背を向ける。
「さあ! 洗っちゃってくれ!」
「ええ、大切な客人だとのことなので完膚なきまでに洗わせてもらいます。髪はもとより
 後ろも前も余すことなく」
「前も!?」
「無論です。洗い残しがあっては旦那様に顔向けできません」
「前も洗われたら俺があんたに顔向けできないよ!?」
「問題ありません。主の命に従うのが私の仕事ですので、存分に顔向けできなくなってください」
「わー斬新」
「心の準備もできたようですので、では――」
「そこはダメ――!」
 女性に触れられたのも初めての経験だった。

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