行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 生き残った商人たちにとって望外の生が得られた以上は、次に論じるべきは進退だ。人里からはどこも同じ程度の距離がある。そして進もうと戻ろうと人外の脅威は常に付きまとう。
 荷を運ぶ騾馬が無事だったのは幸いだろうが、幸いだからこそ意見は統一を見ない。
 戻るしかなかったら戻ったのだろう。だが現状は進むことも出来る。
 力のある商人は街で店を構える。伝があるものは地方で支店を任せられる。そうでなければ細々と隙間を生きるか、一発逆転を夢見て足を延ばす。だが商人が一団を組むというものも珍しい。それほどの事情があるのだろう。
 商人たちにとっての問題は護衛だ。いずれにせよ脅威がある以上は、商人だけで道を行くことが賢いとはいえない。決して少なくない金を払って護衛をつけるのが常だ。その護衛はもう死んでいる。
 アズールが思うことは特に無い。大変だろうとすら思わない。生きているのだから自分でどうにかするだろう。意思と目的があれば、それに向かって進むことが出来る。それが出来ないのであれば、相応の結末がある。世界は無情だが、平等だ。
 旅では道中の食料や水ですら貴重だ。同情で分け与えるようなものでもない。相応の対価があろうと渡すべきものではない。限られた荷の中で必要だから所持しているのだ。そのために人の命を奪う輩も存在する。
 時間もまた有限だ。生きている以上は死という限界があり、さらにその中で自らの意思で動ける時間は黄金を積んでも買えないものだ。それを他人のために割くなど正気の沙汰ではない。
 勇者と呼ばれたものも、その仲間も、誰も彼もが究極的には自分のために戦った。自分たちの守りたいもののために戦った。だからこそ戦えた。確固とした意思があったからこそ、仲間の屍をも超えることが出来た。
 だからルキの反応はアズールにとって正しく予想外のものだった。
「護衛が必要ならば、私がやるわ」
 もしかしたら、と考えなかったわけではないが客観的に否定した。
 旅をするものには目的がある。その目的の達成こそが至上であるはずだ。
 仮に行き先が同じであれば、路銀を稼ぐための方便としても許される。だがルキは状況も問わず、行き先も問わず、状況すら問わず、真っ先に護衛に着くことを宣言した。
 何も考えていない馬鹿ならばそれでいい。
 しかし何も考えていないはずは無く、何かを考えた上での選択だ。
 だから余計に理解できない。
 相手は商人だ。悪質であれば言質を取られ、どこまでも酷使される可能性さえある。そうでなくとも先に切り出した以上は足元を見られるのは確実だ。少なくとも相手から言い出すのを待てば、それなりのものを得られた。
 何のためにと問うことはしない。
 ルキに同行している以上は、いずれ分かるだろう。あるいは真に理解できないことかもしれないが、彼女の先はまだ続く。アズールを顧みずに進んでいく先がある。
 ならばそれでいい。
「あの……そちらの方は……?」
 商人とルキの契約がまとまったのだろう。そしてその中にアズールは含まれていない。
「俺は護衛なんてしない」
「そんな――っ」
 悲痛な声を上げるが、アズールの心を動かすことは無い。
 傷ついていたとはいえ人外を一撃で屠るアズールを欲しがるのは当然だろう。内心では疑いがあるのかもしれないが、商人は現実的だ。人外の脅威なく道をいけるのならばそれに越したことは無い。
 たとえ人間には成しえないことをするものがいたとしても。
「何もそう長い道程ではありません。勿論お連れ様ともども色はつけさせていただきます。私どもの商いが成功すれば、さらに報酬をお払いする事だって――」
「俺が同行しているのはルキだ。はっきりと言えば――」
 貴様らの生死に興味が持てない。
 そう正直に言って、どうなるか想像がつかないほどの愚でもない。
「……他人のために危険に身を置こうとも思わない。貴様らには貴様らの目的があるように、俺には俺の目的がある」
 かつて勇者となった男の言葉かと思うと反吐が出そうだった。
 しかし心に嘘はない。だからいっそう思考が傾く。力がざわめく。
「まあまあ、私だけじゃ心細いかもしれないけど、いないよりはましだと思って」
「いえ、勿論そんなことは言いませんが……」
「水も食料も自前だ。それについていく以上は、気が向いたら力を貸す。契約によって強制的に縛られるのが嫌なだけだ」
「それならば……」
 全く納得していない様子だったが、それ以上は時間の無駄だと悟ったのだろう。現実的な判断は商人に必須のものだ。
 その現実的な判断がルキをどう見積もったのかは分からないが、少なくとも相場程度の金は払われるようだ。もっともルキにとってみれば、払われれば嬉しい程度のものにしか見えなかった。
 やはり理解できない。
 その瞳に宿る輝きが一つとして曇らず、輝き続けるわけを知りたい。
 あるいはアズールには理解できないからこそ正気なのかもしれない。既に人ではなくなったアズールの考えこそが人にとっては異質であってもおかしくは無い。自分というものが、アズールものなのか、獣の王のものなのか、その判別はもうきっとついていないのだから。
「不思議そうね」
「……表情に出したつもりは無いんだが」
「じゃあ、表情に出さない程度には気を遣ってくれるんだ」
「どうかな。そこまで考えてないことは確かだ」
 契約がまとまった以上、ルキは商人たちの護衛だ。護衛となったからには旅程は商人たちの都合に左右される。ルキだけならば、より足を延ばせたはずの行程も荷を運ぶ商人たちに合わせれば早い段階での野営となる。
 本来であれば、たった一人で護衛など出来るはずもないと商人たちにも分かりそうなものだが、その道理を無視したいほどに必死なのだろう。それに途中で人外に襲われて死んだとしても、ルキを恨んで死ぬことが出来る。それは案外に幸せなのではなかろうか。
 それとも、誰をも恨むことができないアズールだからこその思考か。
 ルキ本人がどう考えているかは分からない。火の番は護衛の仕事であり、その護衛は一人しかいない。必然的に夜を徹することになる。
 同じく傍らで火を見ているアズールは単に眠る必要が無いだけだ。自らを人と疑わなかった頃は眠っていたが、それもあくまで人としての習慣の名残だろう。自らをはっきりと自覚するようになってからは睡眠欲というものはほとんどなくなってしまった。眠ろうと思えば眠れるが、肉体的にも精神的にも眠りを必要としていない。
 だからルキとアズールだけの言葉が夜に溶ける。
「どうしてって聞かないのね」
「聞いて欲しいのか」
「私もわかんない」
 問いかけを望むということは、理解を望むということだ。
 しかしルキは理解されないだろうということを理解している。
 その心中をアズールが察することは出来ない。親友だった男の心の内を実際に言葉に出されるまで分からなかったのだ。ならば言葉にならない思いが分かる道理もない。
 それは相手にも同じことだろう。
「……言っておきたいことならあるな」
「何?」
「助けに入るべきではなかった。いや、本来ならば助けられてなどいない」
 何故とは言わなかった。
 それはアズールが問うべきものではない。だから先達としてだけの言葉を言う。
「一人で勝てる相手ではなかった。いくら高潔な想いに殉じたとしても、力が伴わなければ余計な死体が一つ増えるだけだ。自己満足にすらならない死だ」
 それすら理解できないのならば、戦場に立つべきではない。旅に出るべきではない。
 自らの命の守り方を知らないのならば、それは未熟ではなく、欠陥でしかない。埋められなければ不完全なまま完成してしまう。
 それを自覚した上でならば話は変わってくるが、ルキがそうなのかは分からない。
 だから言う。
「自覚するべきだ。ルキ・シェザード。お前は弱い。自らの意地を通せるほどには強くない」
「そんなの言われなくても知ってるわよ」
 火を見ながらも、ルキの視界の端にはアズールが映る。アズールもまた同じく視界の端に捉えているからこそ、視線は交わらなくとも相手の表情は分かる。
 ルキの表情には痛いほどの悔恨が刻まれている。
「伊達に女一人で旅は続けてないわ。ままならないことのほうが多いもの。本当に」
 語る言葉には今も血を滴らせる傷跡があった。
「私の命の危険なんて何度もあった。助けられないものの方が多かった。それでも助けられるものがあった」
「だから挑むと?」
「馬鹿だと思う?」
「愚かだと思う」
「そうね。私も正直に言えば、あれは死んでたと思う」
 けど、とルキは言葉を継ぐ。
「アズールが助けてくれた」
「俺がいつも都合よくいるわけじゃあない。まして助けるとも限らない」
「そう。あくまで結果論よ。そのおかげで私はこうしてアズールと話せてる」
「つまり、助からずともお前は良かったと?」
「良かったなんていわないけどね。程度の問題よ。もしも助けられたのなら、と後悔するよりはずっといい」
 それに、とルキは冗談めかして笑う。
「私だから助けてくれたんでしょう? 自ら愚かだと知って、それでも挑んだ馬鹿な女だから。そんな私だからアズールは一緒にいるんでしょう?」
「自惚れの強い女だ」
 実際は意地を通すことではなく、その先を見据えての生をルキが望んだからだ。意地を通すことを望んだのならば、アズールは助けるつもりは一切無かった。
 その程度の決意はルキにもあるのだろう。
 人外は強い。その精神は強靭で、その肉体は強力。人が出会えば、ただひたすらに自らの死に直面するしかない存在だ。
 それは世界の道理だ。人は人外よりも弱く、人外は人よりも強い。だからこそ人は人外に食われるだけの存在だった。朝を喜ぶのではなく、次なる夜に怯えるだけの餌だった。
 その道理を覆したのは、もう伽の中でしか語られることのない英雄にまつわるものたち。
 現実のものとしたものは、それに続くものたちであり、現在の最先端の一人が勇者だ。
 ルキ自身が何になろうとしているのか自覚は恐らく無いのだろう。
 しかし、自らの意思で一人戦場の先頭に立つのは、一つの役しか用意されていない。
「だって放っておけないじゃない」
 どれだけの言葉を重ねようとも、結局はそれだけなのだとルキは言う。
 ただそれだけの言葉で十分なのだと。
 それだけの言葉がかつての勇者の出発点と同じだとは知らない。知らないからこそ、ルキの言葉はそれだけだ。それこそがルキの想いなのだ。
 勇者に似ているが、勇者とは違う想い。
「理屈じゃないの。理屈が思いつかないわけじゃないけど、結局はそんなの後付」
 自らを語るルキの表情には輝きがある。
 火の中に何が見えるのだろうか。アズールには一度として同じ色を見せない炎の赤しか見えない。自らの瞳に力を得るようなものは何も見えない。
 火を見て思い出すのは、戦火だけだ。
 今でこそ風化しようとしている双色の勇者の戦いは火の中にこそあるのかもしれない。
 だが、それはもう過去だ。過去から続く現在を思い出させる過去だ。
 過去から目を逸らせば、ルキの横顔を見るしかない。
「私はどうしても放っておけないの」
 誰かに宣言するわけではなく、ルキは静かにそう呟いた。あるいはアズールに聞かせる気すらなかったのかもしれない。風が吹けば耳には届かなかったような声量だ。
 だが届いた。
 過去から目を逸らせば、過去が聞こえた。
 その答えはかつてのアズールが抱いたものと同じものだった。その真っ直ぐな眼差しと気高い姿を見て、かつての自分もそうだったのかと自惚れる。
「素晴らしい」
 その言葉は同じく風が吹けば消え去るようなものだった。
 しかし嘘偽りのない心の素直な感想だ。
 素晴らしい限りだ。
 これほどの志を持つものがいるとは。
 これほどの志が潰える瞬間があるとは。
 全く正直にアズールはそう思った。

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