行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 ルキ・シェザードは律儀な女なのだ。
 裸身を見られれば怒るし、助けられれば礼を言う。他人にとって全く無価値の価値観が彼女の中にはしっかりと在るのだろう。
 だから、助けられた彼女は礼を言った。
「ありがとう。これで三度目かしら」
 その通り。三度アズールは助けた。三度ルキは自らの意地を曲げた。
 放っておけないものを放っておかない。それこそが彼女の意思だが、これまでの人外との戦いの中で本当の意味でルキだけの力で勝利した戦いは一つもない。全てがアズールの力によって決着したものだ。
 あの晩、ルキは自らの想いを語ったが、果たしてそれに届いていると言えるのか。
 届かないからこそ努力し、足掻いているのだと言うのかもしれない。
 しかし、とアズールは思う。あの晩と同じようにルキの傍らで炎を見つめながら、思う。
 ルキは未熟だが、全く手の届かない領域にいるわけでもない。一介の騎士としてならば、特に問題のない程度の力はある。そして騎士に並び立てるとするのならば、自らの手で勝利を掴めてもおかしくは無いのだ。
 現実として、ルキは一つも勝利を掴んでいない。
 何故か、と問うまでも無い。アズールの目にははっきりとその理由が見えた。三度目の戦い。近づいていては見えなかったものが、二人の距離ゆえに見えた。
 それを言うのは簡単だ。突きつけるのは容易だ。
 ただ、ルキが真の意味で理解したとしても、一朝一夕でどうにかなるものではない。
 強者であるアズールだからこそ言えることだ。弱者たるルキを責めるのは、それこそ弱いもの苛めにしかならない。ルキの成長に繋がるわけでもなく、単なる八つ当たりにしかならないと分かりきっている。
「何故俺に助けを求めた」
「え?」
 そう、弱いものいじめだ。八つ当たりだ。
 それは強者の特権であり、恐らくは自らを最低と誤解無く断じる行為なのだろう。
 それでもアズールは言う。醒めた意識に抵抗は無く、心にはむしろ歓喜がある。
 弱者を攻め立て喜ぶなど、それこそ獣のように。
「俺はお前の戦いを三度見た。そのどれもが結局は俺に助けを求めた」
「それは私の力が及ばなかったから……、けど、次には――」
「一度ならいいだろう。だが二度目はどうだ? 挙句、三度目は?」
 ルキの力が全く及ばなかったわけではない。どの戦いにも勝機と言えるものがあった。それだけのものを作り出すだけの力がルキにはあるのだ。
「相手は人外。対する貴様は人間だ。しかし、圧倒的差があろうとも勝機が無いわけではない。お前は実際に勝機を得ていた。その自覚はあるか」
 最早、それは問いかけではない。理解を求めているわけではない。理解していなければ、この会話は終わる。最低限の理解すらもたない相手にアズールは語る言葉を持たない。
 この会話がどういう意味を持つのか、ルキは理解しているのだろうか。
 少なくとも、ルキは頷いた。隠しようの無い怯えを隠そうとしながらも。
「人外を相手に人が戦って、勝機を得られるのならばそれは望外のものだ。そして、二つと無いものと知れ」
 ならばどうするべきなのか。
 アズールは自らの経験からの答えを語る。
「それが唯一ならば、たとえ自らの命を失うことになっても手放すべきではない。自らの限界では足りないならば限界を超え、一人で足りないのならば仲間を求める。そうしなければ、次は無く、敗北の果てには自らの命だけではないものが失われる」
「それは……」
「ああ、知っているのだろう。だが、絶対的に理解していない」
 あの絶対の喪失を。永遠の別離を。
 つい先ほどまで言葉を交わしていた相手が、二度と言葉を交わせない距離にまでいってしまう、あの言いようの無い感情を。
 経験して欲しいとは微塵も思わないが、経験しなければ到底理解できないものだ。
 ルキ・シェザードはどこまでも未熟だ。
 かつての勇者とその仲間達が辿った経緯を経ず、ただ決意だけを同じくしている。
 歪と言えばどこまでも歪であり、ルキがどれだけ真に願おうともそれはまがい物でしかない。
 自らの死を知って、三流。
 自らの死の意味を思って、二流。
 自らの死の先を理解して、一流。
 だからと、自らの死を厭えてこそ、超一流。
 かつて勇者ではなかったアズールたちへと戦場に立つものの意を教えてくれた仲間の言葉が蘇る。
 その意味では、ルキは戦場にすら立っていない。
「放っておけないものを放っておけない。なるほど、立派なことだ」
 言葉だけを聞けば、素晴らしいことだ。あるいは勇者の再来とさえ謳われるかもしれない。
 だがルキは理解していない。
 自らの戦いが示す、自らの想いを。
「お前が戦って、それで勝利できれば問題ない。しかし敗北すれば、一つ無駄に死骸が増えるだけだ」
「じゃあ、放っておけっていうの!?」
 無駄、という言葉に反応したのかルキの感情がついに夜気に弾ける。自らの矜持とでも言うべきものを馬鹿にされて、今までよく我慢したものだと賞賛に値するのかもしれない。
 そうでなければ、ルキは自ら知っていたのだ。
「自らの想いのために戦って、自らの想いの果てに死ぬのならば、お前は満足だろうさ」
 全くその通りだ。
 かつて味わった苦い味と共に言葉がアズールの口から零れる。
「誰かの先頭に立ち、真っ先に死ぬ。そうすればお前は満足だけを抱いて死んでいける。後に残されたものの全てを知らずに死んでいける。自分は出来る限りをしたのだと、勝手に託して死んでいける」
 全く以って迷惑な話だ。
 限りある命を徒に散らすなど。
「お前が生きていれば開けたかもしれない可能性も、得られたかもしれない勝算も、掴めたかもしれない勝利も、お前ただ一人の命が無駄になっただけで全てが失われる」
 アズールの言葉がどう取られるか。
 隠者の妄言か、愚者の説教か、先人の愚痴か。
 そのどれでもない。確信はアズールの中にある。
 何故ならば、紫紺の勇者アズール・メーティスが一生涯を賭けて得た全てだ。血が通い、呼吸をし、鼓動を打つ、かつてからの言葉だ。
 それがどうして棄却されるだろうか。
 どれだけ歪であろうとも、ルキは、かつての勇者と同じ決意を抱くものだ。
 そうであるのならば、耳は頭へと通じ、肌は心へと通じ、思いは想いへと通じる。
「理解に努めろ、ルキ・シェザード。命は捨てるものではなく、賭けるものであり、使い尽くして使い潰すものだ」
 そうでなくてはならないのだ。
 自らの力の無さを自覚せず、戦いの中に飛び込むのならば。
 子供じみた夢想が結実するとそう思っているのならば。
 いつか全てが適う日が来ると願っているのならば。
「そうでなければ、お前はいつまでもお前の望むお前に成れはしない」
 そして、それが別れの言葉だ。
 アズールは観察者としての域を踏み外し、ルキへと干渉してしまった。もう彼女は純然たる彼女自身ではない。アズールの求めた何かを知っている彼女は永遠に失われてしまった。
 一時の悦楽のために、目の前にある可能性を食い潰す。
 抑えようの無い、獣としての性。
 だから、これは別れの言葉なのだ。
「――だったら」
 搾り出すようなルキの声は、だからこそ予想外のものだった。
 完全に打ちのめしたと思った相手から言葉が来るとは思わない。
「私に命の使い方を説くアズールは、今どうしてるの?」
 予想外の相手から放たれる言葉は、当然のように予想外のものだった。
 しかし、予想外だからこそ頭では答えは思いつかず、故に心が答えた。
「俺の命は、既に賭け、使い尽くして使い潰した」
 そうでなければなんだというのだろう。
 それが自分の言葉だとは到底思えなかったが、それ以上の答えがあるとも思えなかった。
「その成れの果てだ」
 成って果てるだけだ。
「じゃあ――」
 ルキが言った、その言葉が本当に別れの言葉となった。

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