心が何を感じようとも、はっきりとそれを発露する場は与えられない。
与えられるとすれば、それは国が作り上げた舞台だけだ。勇者としての役を全うすること以外を国は許さず、民は望まず、バーキアはいつしか諦めた。
何も感じないはずが無い。
これで二度目だ。
バーキア・ホーキンスがアズール・メーティスを葬ったのは。
一度目は、かつて。
勇者が人外の獣を打倒したと宣言する際に、尊い犠牲として。勇者として知るものは誰もが勝利を喜ぶよりも、悲しみに潰された。アズールを直接知るものは、馬鹿げたことだと国を笑い、いつ帰ってきてもいいように明日を作った。
二度目は、昨日。
死線を潜り抜けたアズールが帰還し、その事実故に国が脅威と感じたからこそ。ただ一人戦い勝利した勇者は、国の存続のためという信義の元に抹殺された。メーティスの家名は取り潰され、アズールの名は完全に国から抹消され、もうどこにも残っていない。
一度目も二度目も国がそれを命じた。
一度目も二度目もバーキアがそう選択した。
仕方が無い。
それは諦めの言葉ではなく、自覚の言葉だ。国の責を問うよりも、自らの力の無さを嘆く。
力があれば、覆せたはずなのだ。
だからバーキアの心の中には悔恨が刻まれる。
仮にその選択に自らの全力を尽くそうとも、全く別の後悔は残る。
今も昔も変わらず、それは苛み続ける。アズールが許そうとも、バーキア自身が許さない。この心の痛みは生涯抱え続けていかなければならないものだ。
次こそは、と望む先へと至る為に。
弱音は見せず、吐かない。
与えられた執務室へと戻っても、表情は崩さない。副官の報告を聞きながら、机へとつき、決済を待つ案件の数々へと目を通す。悲しみに沈み、立ち止まっている暇など一つとしてない。
アズールの抹殺など国からしてみれば数ある案件の一つに過ぎない。それも飛び込みのものだ。常から山積している問題を疎かにしていれば足元が怪しくなる。現在も王国が向こう側の領土を手に入れたことにより各国より警戒され、またそれとは別に各地で人外の被害が拡大の傾向にあるという話もある。
平和な時代を謳ったものがいたが、火種が顕在化していないだけに過ぎない。戦いに勝利すれば平和になると信じていた自分の若さが愚かしい。戦いに勝利すれば、次の戦いが待ち構えているだけだ。そして全てに勝たなければ望むものは得られない。
終わりがあるのかどうかも分からない道のりだ。
それを行くと決めた。
「朝からお疲れのようですね」
それでも隠せないほどの疲労はあるらしい。バーキアが顔を上げれば、副官が茶を持ってきていた。
「外で見られれば、家庭内の不和とも噂されかねませんよ」
「……あながち間違いでもないのが恐ろしいことだよ」
嘆息を零さなかったのは長年の積み重ねによるものだ。お互い付き合いは長いが、副官といっても業務の一環だ。長い尻尾が隠れているかもしれない相手を前に迂闊を見せられない。
とはいえ、ある程度の呼吸も分かる相手だ。執務に必要なことならば教えているし、隠してもいない。尻尾の行方よりも有能な片腕のほうがバーキアにとっては貴重だ。
「茶請けは用意しませんでしたが、ちょうどいいようですね」
バーキアも扉の外に人の気配を感じていた。副官に扉を開けさせれば、王女付の侍女が盆を持って入ってくる。滅多にないが、稀にある差し入れだ。王女個人が特定の誰かを贔屓するわけにはいかないので、侍女が勝手に持ってきていることになっている。無言で机においていけば、礼と共に去っていく。
持ってくるのは毎回決まって杯に盛られた宝石のような砂糖菓子だ。幾つか口に放り込めば、あとは副官に渡してしまう。甘いものは好きだが、取りすぎるほどでもない。
それにそもそも菓子はおまけだ。
幾つもある砂糖菓子の中のたった一つ。それだけがバーキアにとって意味がある。
そして相手にとっても。
危険な外へ行くことは許されず、与えられるのはひたすらに続く自己の研鑽の時間のみ。本を読み相応しい知識をつけ、礼儀作法を学び、いつか望まれる場所へと立つためにのみ費やされる時間。
だからだろう。相応の知識を手にすれば、内にある才覚は否が応でも目覚めた。
かつて双色の勇者へと贈られたのも、この砂糖菓子だった。
舌が甘さを感じると同時、耳ではなく頭の中に直接声が届く。
「宜しいですか」
かつてと違うのは、響く声が年相応の落ち着きを帯び、はっきりとした感情を表さなくなったことだ。もう頭の中で煩く響く子供の声はどこにも無い。
王国の頂にただ一人座す、王女。
グロウサリー・ハーツ。
「何なりとどうぞ、グリュー」
「……懐かしい呼び方だわ。まるで昔を思い出させたいみたいね、バーキア」
厳しい両親や煩い大人たちに邪魔されずに、勇者の語る外の話を聞きたいがために独学で紡いだ魔法。それが今では互いにただの個人として言葉を交わすために用いられる。
勇者と王女ではなく、互いに友として。
立場を忘れられるわけではないが、努めて言葉にはしない。いつの頃からか決まっていた暗黙の誓いだ。あるいは最初のあの時から決まっていたのかもしれない。
もっともそうして懐かしさに浸っていられる時間はそう多くない。口の中から甘さが消えてしまえば、言葉を交わすことはできなくなる。
限られた甘い時間だ。
「単刀直入に言うわ。だから誤魔化さずに答えて」
「何なりと」
冗談めかして言ったのは、始まりからそうだったからだ。
顔も見ずに始まった関係だ。お互いの身分など関係なく、ただ言葉を交わすことが面白かったから二人は楽しんだし、一人は喜んだ。
「別に真実を知りたいわけじゃないの。アズールは死んだ。それはもう事実となったわ。メーティスの名は消え、彼の功績もいずれは人々の記憶から消えていく……」
単刀直入に、とそう言いながらも別の言葉を挟むのは、聞くのが怖いからだろう。
ならばバーキアにとっても口に出すのは苦いものに違いない。
しかしそれを知らなければ先へと進めないと思ったから、ここで言葉を交わしているのだ。
「ねえ、バーキア。あなたはアズールの親友なのよね?」
「――ええ。アズールが私のことをどう思おうと、私はアズールの親友であり仲間です」
偽らざる心からの言葉。
そう言えた自分に僅かな安堵を抱く。
少なくとも自分はそうあろうとし続けているのだと確信を持てる。
自らの心が一つ定まる。
「じゃあ教えて。他人の心なんて分かるはずがないから、親友のあなたが感じたものを」
是非もない。バーキアは既に了承している。
「アズールは私を恨んでいた?」
確かに人の心など分かるはずもない。
たとえ親友であろうと、仲間であろうと、胸の内に秘めるものはある。
だから言われたとおりにバーキアは答える。
単刀直入に。バーキアが感じたものを。
「いいえ」
そんなはずは無い。バーキアは一つの自信を以って答える。
「アズールは自らの意思で、自らの道を歩み続けました。後悔など一つも無く、嘆きの無い果てへと至る為に。たとえ多くの仲間が過去になろうと、たとえ死地に一人残ろうと、たとえ……交わした約束の果てが絶望であろうとも……」
本当にそうか?
バーキア自身がそうであって欲しいと望んでいる勝手な願望ではないのか?
答えは分からない。
だがバーキア・ホーキンスの隣に立ったアズール・メーティスはそんな男だった。
「自らの無力さを嘆こうとも、決して誰も恨みません」
「そう……」
返ってくる言葉は、暗く重い。
ならばそれは、王女としてではなく、一人の人間としての感情であり、心であり、言葉だ。
「私はアズールの恨みすら背負えないのね」
相手の仕草が見えない分、感情の動きが繊細に感じ取れる。
触れれば砕けてしまいそうな脆いものだ。だから胸の内にしまわれようとも、気付けば砕けているに違いない。その残骸を見て再び後悔を思い出すのだ。
自らの無力さを。
「私とて背負えないものをあなたが背負ってしまっては困る。私は彼の親友ですよ」
「じゃあ、親友のあなたはどう? 私が命じて、殺させたのよ?」
「その通り。あなたが命じて、私が了解して実行した」
つまりそういうことだ。
誰も彼も全てを自分で背負いたがる。
誰も彼も決して全てを自分で背負えるだけの強さを持っていないにもかかわらず。
それでも先へと進んで行けたのは支えてくれる誰かがいたからだ。
「意地悪だわ」
「あなたに優しくした覚えなんてありませんよ」
「それもそうね。あなた達はいつも大真面目に真剣だったものね。優しい子ども扱いじゃなくて、対等になれるように扱ってくれた……」
思い出すかつては遠く、目指すいつかは遥か。
「けど、私は彼の対等になんてなれなかった……!」
人前で正直になることを許されない彼女の正直な言葉。
それに対して返せる言葉をバーキアは持っていなかった。
だから沈黙を最後に束の間の会話は終わる。
いつしか甘い味は口の中から消えていた。