行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 バーキアが城を出る頃にはもう日は沈み、星が夜空を彩っていた。
 この十日間、忙しさの原因であった案件が一つなくなっても常と時間は変わらない。しかも今は帰っても自分を待っていてくれる友はおらず、人生を共に歩くと決めた伴侶との仲も難航している。
 自らの家に帰るだけなのに、足取りは重い。
 だからといって酒場で羽目を外すこともできない。勇者として名も顔も知られすぎてしまった。一緒に馬鹿なことをして笑った仲間達がいない今では一人で衆人の中へと行く勇気も無い。
 酒は嗜む程度だが、それでも友と飲む酒は美味かった。
 家へも帰れず、街へも行けない。そうなって初めてバーキアは皮肉に気付く。
 自分が持てる全ての力を尽くして守ろうとした場所なのに、勇者ではないバーキア・ホーキンス一個人が居られる場所がどこにも無い。
 笑えない。しかし声も無くのどは笑い声を紡ぐ。
 アズールの居場所を作れなかったのに、どうして自分の居場所を作れるというのか。
 自分を笑うよりも先に、身を通りの影へと隠した。それほどまでに勇者としての自分が大事かと暗く嘲りながらも、その通りだと頷く。
 たとえ現状がどうであろうと、そう決意したのだ。決断した果てにいるのだ。
 暗い路地で背を壁に預け、狭い空を見上げながら、言い聞かせるように諳んじる。
「僕は平和を忘れない」
「しかし、平和はあなた達なんて覚えていない」
 油断。それよりも自分の中に浸っていたことのほうが原因としては大きいだろう。
 何よりもここは街の中だ。国の方針で治安も高い水準で維持されている。無駄な火種は芽吹かず、そもそも許可無くここに侵入できるはずがない。
 何故ならば、この国の防備にはバーキア自らが関わっているのだ。
 無意識とはいえ、それは自負であり、同時に慢心でもあった。
 人が成したことを、人が超えられぬ道理は無い。
 それを体現した存在が目の前に居る。
「バーキア師。あなたは素晴らしいが、同時に極めて愚かでもある」
 バーキアの目の前で得意げに言葉を継ぐのは、見覚えの無い女だ。咄嗟に記憶を探るが、やはり一度として出会ったことは無いはずだと断言できる。国内で流行の服に身を包み、化粧を施した姿は、これから仕事に向かう所だと言われれば齟齬無く納得できるような相手だ。そんな相手にわざわざ注意を払ったりはしない。本来ならば、道ですれ違うだけのものだ。
 そうだったはずだ。
 通りの影へと身を隠したとき、女性が通りかかるのは分かっていた。そしてバーキアへと気づいた様子もなく、通り過ぎたはずだ。
 その相手が目の前に居て、言葉を放つ。
「何故だかお分かりですか?」
「……さて、僕には皆目見当もつかないね」
 過ぎ去ったことで意識から外れたのも確かだが、それでも言葉をかけられる距離にまで接近を許した事実にバーキアの注意は向く。身のこなしに鍛えられた鋭さが感じられたわけでもない相手が、しかし現実として目の前に居る。まるで別人となったかのような変貌だ。
 人外の可能性が頭に浮かんだが、直ぐに否定する。人外がそもそも人の言葉を用いる道理が無い。ならば相手は人だ。人の理の内側に位置するものだ。
 相対する意思を持つ人だ。
「あなたは素晴らしい。かつて双色の勇者として人の先頭に立ち、人外の獣達と戦い、そして勝利する。誰にでもできることではない。たとえ可能とする力を持っていようと、やり遂げることすら困難なはずだ。しかしやりきり、今もやり通そうとしている」
「よくある勘違いだ。僕は運がよかっただけだ。頼りになる仲間がいて、支えてくれるともがいて、だから少しだけ自分の意思を通せることが出来ただけに過ぎない」
「それをはっきりと自覚できることも、また一つの才覚でしょう。自らの不可分の領域を認識できるのならば、不可能を超えるための可能性を自らの中に見つけ出すこともできる」
「褒めてもらうこと自体は嫌いじゃあないので、褒めてくれてかまわないけど、それだけじゃないんだろう?」
 言葉を交わすこと自体には意味は無い。少なくともバーキアは正体の分からない相手との会話を望むつもりは無い。あくまで時間稼ぎに過ぎない。
 突然の遭遇だ。相手に害意があるかどうかも不明だが、状況が判然しない以上は警戒して損は無い。探知結界によって周囲を探り、いつでも動けるようにする。
 逆にこの会話自体が相手の時間稼ぎの可能性もあるが、対応する時間があるのならばバーキアに拒否する理由は無い。
「人の評価をただ二元的にするつもりが無いだけです。だからあなたに尊意を抱く一方で、蔑意をも抱く」
「素性の知れない誰かの毀誉褒貶なんて僕は気にしないから勝手にしてくれ。そこの壁に向かってならば、誰の迷惑にもならない」
「下らない話をするつもりは無いですよ。今までの会話はあなたのためです」
「僕の? 頼んだ覚えは無いよ」
「いえいえ、安心できたでしょう? 周囲には私以外に誰もいない。罠らしきものも無い。あなたがそう確認できるだけの時間はあったはずだ」
 動揺しなかったといえば嘘になる。だがそれを押さえ込むだけの力量もバーキアにはある。
 思考は冷静だ。先ほどまで浸っていた感傷など忘れてしまったかのように思考は研ぎ澄まされる。
 相手はバーキア自身のことを調べ上げている。それこそバーキアの不可分の領域を。
 敵対するためか、それとも全く別の何かのために。
 確かな目的を持ってここにいる。
「余計なことに思考を割いて欲しくないんですよ。真剣に考えて答えて欲しい。それだけです」
「だったら不意打ちのようなことをせず、正面から訪ねてくるといい。うちの優秀な侍女が門前払いにしてくれる」
「だからですよ。それにご多忙でもある。非礼は認めます」
 腰を折る様は礼のつもりだろうか。それとも挑発しているのかどうか判別がつかない。
 単純に苛立ちがあるが、少なくとも目的を理解するまでは付き合う必要がある。相手の目的が分かれば対処が出来る。一々相手にするよりも一網打尽にするほうが効率的だ。
「そうまでして僕の前に出たんだ。さっさと話せばいい」
「ならば早速お尋ねしましょう。バーキア師、あなたは現状をどう思います? この平和とも表現できる時代について――」
「素晴らしくないはずがない。僕達はそのために戦った。そのためにこそ力を尽くした」
「争いがなくなることこそが素晴らしいと?」
「少なくとも無駄な争いを好む理由は無い」
 そう答えながら、バーキアは次に相手がどう言うのか分かった気がした。
「下らない」
 その答えで目の前にいる相手がようやく誰だか分かった。素性も所属も不明だが、あの夜にアズールの前に現れたものだ。不審な相手と不穏な会話をしていたためにアズールの危険性はより高く評価されてしまった。
 あの時は男だったが、別に性別など問題ではないのだろう。
 相手は人間だ。理解できないわけではない。
「戦いによって今の平和を築いたあなたの言葉とは思えませんね」
「率先して戦いを望んだとでも? 戦うしか方法が無かったから戦ったまでだ」
「ならばやはり戦うしかないのでしょう。争うしかないのでしょう。人が次の段階に進むためには」
「望むのならば一人で望むといい。望まぬ誰かを巻き込むな」
「いえ、そこは譲れませんね。こんな平和は駄目だ。人を腐らせる」
 女はそこで初めて感情らしきものを露にする。
「あなたもそう思っているはずでしょう?」
 相手は心底に共感を求めている。こんな平和は下らないとバーキアの口から言葉を欲しがっている。
 何故ならば、バーキアがそう思っていると確信しているからだ。
「真に戦いを知らない人は、あなたたち先人が鍛え上げた全てを錆びつかせ、腐らせ、朽ちて果てさせる。誕生の先にある必死を知らぬ魂は醜く肥えて太り、餌を求めて囀るだけだ。かつて命を賭けて戦いの咆哮を上げた戦士たちの全てを食い尽くし、都合のいい夢だけを見て全てを無為にするしか能がない害悪に他ならない」
 今を生きる人を害悪と断じるのは、しかし目の前の人間だ。
 ならばそこにあるのは絶望から生まれる嫌悪の感情だけではない。
 二元論だけで語らないのならば、そこには希望から生まれる愛好もまたあるはずだ。
 それが騒乱をこの世に巻き起こすということならば、
「あなたこそが、人を腐らせる平和をただ与える一因に他ならない」
 バーキア・ホーキンスという存在は確かに強大に過ぎる。
 一人では何もできなくとも、双色の勇者の一人を信じるものは大勢いる。それも、信じて前を進むものではなく、信じて全て放り投げるものたちだ。
 平和とは勝ち得るものではなく、与えられるものだと妄信してしまった者たちがこの世にはいる。
 彼らをバーキアは知っている。
 確かに知っている。
 彼らは人間だ。
「生憎と僕は人にそこまで絶望していない。何故ならば、かつてを共に駆けた友と仲間も人間ならば、僕もまた人間だからだ」
 それに、とバーキアは言葉を継ぐ。
「先人がその命を賭けて築いた平和を破壊するというのならば、僕は貴様を許さない」
 ひどく個人的な都合だが、今夜はバーキアの沸点は低い。友が去り、妻と不仲で、城中では穂先をぶつけ合う。相手の戯言に付き合う度量はもう尽きかけている。
 最後通告を告げると同時に、間合いを零にする。右手は相手ののどを掴み、左手は腹に当てる。近接戦を得手としていなくとも、老いたとしても、それでも赤橙の勇者の名を背負っている。相手が動くよりもバーキアの反応のほうが早い。
「やっぱり愚かだ。他の誰でもない勇者の名を持つあなたこそが人を腐敗させるというのに」
「かつてはそれこそ騒乱の時代ですらなかった。人はただひたすらに人外の餌である時代だった。それが覆され、戦えるようになったのは、人がそうと望んだからだ。そしてついには平和を手にしたのは、人がそうと望んだからだ。昔よりも今が良くなっているのは、人がそうと望んだからだ。都合のいい夢を見ることができるのならば、次は実現するために動けるはずだ」
 かつてアズールとバーキアが語り合ったのもそんな夢物語だった。
 その夢物語の果てがここだ。
 全てが全て望んだ通りではないが、何もかもが叶わなかったわけではない。
「人の望みが絶たれない限り、それは必ず実現する!」
 この平和が人を腐らせるというのならば、きっと次は人を腐らせない平和を望むものが現れるはずだ。
 次こそは、とそう信じて進んできたのだ。
「だからこそ私は騒乱を望む」
「ならば、貴様は僕達の敵だ」
 相手の慇懃無礼ともいえる態度は自信の表れだろう。
 自分は傷つけられないという、絶対高所からの見下し。
 その傲慢を奪う。
「消えろ」
 赤橙の炎にも似た何かが女の全身を一瞬包み、解放する。
 遠く、悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、黙殺した。
 目の前に崩れ落ちてきた女性の身体を受け止め、意識内におかしな仕掛けが残っていないことを確かめて、一つ安堵の息を作る。
 他者を支配する法が無いわけではない。ただし、それを可能とするには相応の力量と技量が必要になる。
 バーキアの敵となった相手は、それだけのものを持っていることになる。
 そしてそれだけの力を持ちつつも自らは姿を現さない相手だ。
「本当に厄介なことばかりが増える……」
 最新の厄介ごとである、腕の中に抱えた女性のみをどうしようかと思うが、余りにも面倒だったので考えることをやめた。
「客を一人増やすことで許してもらいますか」
 あるいは街で遊ぶ口実だ。

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