行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 思い返してみれば、アズールが目を覚ましてからの出来事は今までの人生の中でも味わったことの無いものばかりだ。再会の喜びもそうなら、離別の悲しみもそうだ。
 バーキアとの再会など喜ばしいこともあったが、それでも気がめいることのほうが多い気がする。あるいはそれだけ思考が傾いているのかもしれない。知らずに思い域が零れるのもそのためかもしれない。
 だが嘆息ばかりではいられなかった。
 アズールの思考が負へと向かえば、獣の力が騒ぐ。獣の力が解き放たれれば、世界が手にした平和は再び食い破られる。そして最初に食われるのは他でもないアズールだ。
 アズールの姿をした獣が世界を平らにする。
 思えば、また一つ嘆息が零れ、また力が騒ぐ。
 最早反射にも近い行動で意識を引き締める。今はまだ抑えていられるが、いつそうならないとも限らない。無理やりにでも前向きに考える必要がある。
 だから、放浪か、と改めてアズールは考える。それも前向きに。
 思えば初めてのことだ。本当に一人でいるということは案外無かった。子供の頃からの付き合いでバーキアとはよく共におり、それは戦場に立つようになってからも一緒だった。勇者と呼ばれ始めてからは、より多くの仲間たちと戦場で戦っていた。
 独りとなったのは、かつて向こう側の世界で獣の王と対峙したとき、そして今だ。
 喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないが、どうしようもなく一人の時間だ。少なくとも悲しんではならない。五十年という歳月では世界は余り変わらないだろうが、アズールにとっては未知のことが多いはずだ。実際のところ、国を出たことも無く、勇者と呼ばれようと酷く狭い世界で生きてきた。
 どうせ死ぬまでは生きなければならないのだ。
 少しは楽しみを見つけてもいいのかもしれない。
 何かあるかと考えてみるが、昔の思い出。それも喜びと共に思い出すのは、いつも誰かと一緒だったものばかりだ。一人で楽しめといわれても見当もつかない。
「悪いけど、教えて欲しいんだ」
「何を?」
「楽しいことって何だと思う?」
 話しかける決意は、先ほど杯を干したときにした。一人で悶々と悩んでいても仕方が無いので、見知らぬ男に声をかける。
 あれから森を抜け、村を見つけたので立ち寄った。人の住む区画よりも耕作地のほうが大きいぐらいだ。作物の間に見える人影は恐らく村の総数なのではないかと思うほどに多い。
 小さな村だ。そして人外の領域とされる森に程近い。
 昔はこんな光景が当たり前だった。今もそうなのだろうか。
 ただそれだけの好奇心が足を進めていた。別に飢えも渇きもなく、そもそも歩み続けるだけならばもう休息は必要としない身だ。だからこそ以前とは全く別の価値観が身体を動かす。
 踏み入れたのは、民家と見間違うばかりの小さな酒屋だ。まだ日も高いうちから開いているのかと思ったが、開いているからにはそういうものなのだろう。奇妙な納得と共に店内を見れば、客に見える男が一人だけいた。店主らしき老人は、その男の相手をしている。
 一杯頼み、別に酒を飲みたいわけじゃあないと気付いたのは一杯を乾かしてからだった。
 だから二杯目で決意をした。
「何だって?」
「だから、楽しいこと」
 アズールと男の視線はぶつかるようでぶつからない。男が若干酔っていることもあるし、アズールが視線を避けているせいでもある。王都でもアズールを紫紺の勇者だとわかるものはいなかった。心配しなくても大丈夫だと思うが、どうしても最悪の場合を考えてしまう。
 もっとも、最初に素顔を見せてしまっている時点で思考に意味は無い。
「楽しいこと? 楽しいことなんて何にもねえよ」
「おいおい、馬鹿言うなよ。酒なんてのは特別な場合を除けば、楽しく飲むもんだろうよ」
 勝利を喜び、生き残った実感を味わい、再会を祝す。それがアズールの知る杯だ。
 故人を偲ぶ場合もあるが、それでも死者を悼むと共に生者のこの先を誓うものだ。
 杯を合わせて打ち鳴らすのは、鐘なのだ。杯を打ち合わせることが出来こと自体を祝福である。そうアズールは教えられ、そう信じている。
「若造が。知った風な口をきくな」
「年取ってりゃあ偉いってもんでもないだろうよ」
「だからって若い者が威張る理由にもならないな」
 息を継ぐように男は杯をまた一息で干し、言葉を継ぐ。
「少なくとも今の時代は俺達が作ったものですらない。自らの生を感じるなら、先人に感謝してもいいだろうさ。双色の勇者と呼ばれた二人が先頭に立ち、人外の領域を切り開いたんだから」
「ああ、あのバーキア……様がそうだったんだよな」
「そうだ。赤橙の勇者と、そしてもう一人……何とかの勇者が」
「そこはセットで覚えておいてやれよ。泣くぞ本人」
「仕方ないんだよ。俺が生まれる頃にはもう一人の勇者は向こうで、俺達の礎となったらしい。勿論感謝はしているが、影は薄いよな」
 思考が傾きそうだった。目の前で本人を前にしているとは男も思わないだろうが、目の前で影が薄いといわれる本人にしてみれば、相当に堪える。
 年齢の問題に関しては特に何も感じなかった。アズールは五十年を寝て過ごしたが、この男は生きて過ごしていたのだ。そこに敬意を払うことはあっても蔑意を持つことは無い。
 それ以上に自分たちの功績が少なからず評価されていることには喜びすら感じる。
「まあ、影の薄い話はいいんだよ。楽しい話だったか?」
「全然よくないが、まあそういう話だった」
「楽しくなんてねえよ」
 結局、話はそこに戻るらしい。
「俺達は衆民だ。騎士でもなんでもない。商人ですらない。作物を育てて収穫して、その取引ですら専門の知識を持つものに頼んでいる。俺達がしているのは本当に、作物の世話をしてわずかばかりの金を手に入れることだ」
 アズールは口を挟めなかった。自身もまた衆民出身であるからこともあるが、それ以上に言葉が浮かばなかった。
 男は酔っている。
 酒に酔っている。自分に酔っている。あるいは自らの悲劇にも酔っているかもしれない。
 しかし吐き出すのは酔っているからであっても、吐き出す言葉は素面のものだ。
 真正面から自身の境遇を見つめた上での言葉だ。
「騎士ならば命を賭けた報酬を得る。商人ならば未来を賭けた報酬を得る。じゃあ、俺たちはどうだ? 土を弄り、作物を育て、しかし何も賭けていないと思うのか? 満足していると思うのか?」
 アズールとバーキアは、それを抜け出した。それを抜け出すためにも戦場へと向かった。
「朝から晩まで土をいじって得られるのは僅かな金だ。愛する妻に楽をさせることもできない。将来がある子供にもっといい教育を受けさせてやれない」
 男の苛立ちと共に杯が叩きつけられる。その苛立ちが向いているのは自身を含めた世界の全てだ。アズールやバーキアのようなものなどほんの僅かだ。それに男には既に家族がいる。夢を語るには老い、夢を諦めるには若いのだろう。
「せめてこんな人外領域の近くでなければ……、そう思っても移り住むことすらできない。そのための金も無ければ、新たな土地で新たに土地を耕すのはもう無理だ。だからここで生きていくしかない」
 平和となった現在でもかつてと何も変わらない苦しみ。獣の脅威がなくなろうと、世界に人外は変わらず脅威として在り続け、そしてそれを完全に取り除くことなどできない。
 人はようやく人外と戦えるだけの存在となった。だが、完全なる勝利を得ることは出来ず、また無傷で勝てるわけでもない。常に何らかの損耗があり、それは人の命に他ならない。
「騎士は戦ってくれる。ひとたび人が脅威に晒されれば、騎士は命を張って俺たちを守るために最前線に立つ。失うものは大きく、だからこそ得るものは大きい。それは道理だ。ああ納得できるとも」
 とても納得している様子ではないが、男は納得できると繰り返す。言葉が切れるのは酒を干している間だけだ。別段知り合いでもなんでもないアズールにそれだけ饒舌に話すということは、普段は話せないことなのだろう。
 あるいは話しても意味の無いことだ。
 だから余所者に話す。意味の無い愚痴を余所者にぶつけ、自らの荷を軽くする。
「じゃあ、俺たちは何だ? 土を耕すだけで何にも頑張ってないっていうのか?」
 そんなことは無い。そう言うことは簡単だが、その言葉にこそ何の意味も無い。
 現実の保障では王侯貴族を除けば、騎士の保障が最も厚く、農耕従事者が最も低い。
 男の言うように誰もが納得している部分もある。騎士はその命を賭け、人を守る。敵は人外であり、単純なまでに強力な存在だ。その前に立てばまず死を意識させられ、恐慌を与えられ、それを乗り越えて初めて戦うことができる。
 誰の目にも明快な危険手当だ。
 だからといって自らの低さを納得できるものはいない。
「騎士や貴族の食い物は誰が作ってる? それとも食い物は供給されて当然か? 人の努力は顧みられないのか? 人外の領域に最も近く、最初に脅威に晒されるしかない場所で、移り住むこともできずに、ひたすらに土を弄るしかない。それが俺たちだ」
 本来ならばそこに高低はない。伽で語られる時代に英雄を排してからは、誰もが人であり、誰もが可能性のもとに平等であることが語られてきた。
 しかし、それでは人の世は現実問題として成り立たない。何もかもが不可欠でありながらも、それを完全に無理なく成り立たせる仕組みが無い。どこかで不満が生まれ、誰もがそれを無視できない。
 それがアズールとバーキアの守った世界だ。
「楽しいこと? 何度でも言ってやる。楽しいことなんてありはしない」
 男の目は真っ直ぐ絶望を見ている。閉塞された未来にありふれた希望は無く、死ぬまで続く現在だけが映っている。一時の酒に溺れたとしても、それは消えてなくならない。いつでも男のそばにあり続ける無限の現在だ。
「それでも生きていくしかないんだよ。俺には女房も子供もいる。俺が絶望したって死にたくないなら、出来る限りをして生きてくしかない。絶望を抱えても生きていくんだ」
 言葉の終わりに響いたのは、男の杯が倒れた音だ。言いたいことをいって満足したのか、それとも酒に潰れたのか判別はつかないが、男はそれ以上言葉を続けることなく頭を落とす。
「折角よってくれたのに申し訳ない」
 老いた店主はすかさず後始末をしながらも、アズールへと新しい酒を注ぐ。その一杯は奢りのような気がしたので、遠慮なく杯を傾ける。
 実際、アズールの気分はそんなに悪くない。
 むしろ、爽快だ。
「人間って凄いな」
 素直にそう思う。
 正直に言えば、アズールは自分を不幸だと思っている。戦って戦い続け、常に全力で挑み、決して後悔しないように決断してきた果てに、嘆くことすら許されぬ状況に陥った。友を失い、勇者の名を失い、挙句に人ですらなくなった。これを幸運といえるものはいないだろうと後ろ向きの自信すらある。
 だが、絶望を抱えても生きると、そう宣言できるだけの強さはアズールに無かった。
 勇者でも騎士でもないただ人間は、はっきりとそう宣言した言葉をアズールは持っていなかった。
 かつて幾度となく絶望を超えてきたが、それは裏を返せば乗り越えられる絶望だったに過ぎない。今こうして絶望に直面した今、諦めと共に現在にいる。自身の弱さは知っていたが、まさかこれほどだったとは思わなかった。
 そして人の強さを改めて知った。
 果たしてバーキアですら言える言葉かどうか怪しい。今すぐにでも会いに行って語り合いたい。自分の考えをぶつけ合いたい。胸の内に激しく欲求は渦巻くが、適わぬ望みだ。
 だから出来ることをする。
「なあ、もっと話を聞きたいんだが。待ってれば、もっと人が集まるのか?」
「……さあ、どうだろう。集まるときは集まるけど、集まらないときは集まらないし。本当は今日だって、こんな時間からあけるつもりは無かったんだが、この人がね」
「珍しいことなのか?」
「誰だって逃げたくなることもあるさ。女房にも子供にも愚痴は聞かせられない。かといって働いている仲間の邪魔は出来ない。だから一人で酒に溺れる」
「いやいや、けど最後の言葉はグサッと来たよ。心に来たよ」
「言うだけなら簡単さ。現に他は働いているのに、ここで酒に溺れる始末だ。言動一致とはとても言いがたい」
 老店主の言葉は厳しい。それが一面の真実であるだけに尚更だ。
 人は誰だってそうだ。理想を掲げ、現実を進むが、その溝を埋められずに苦難に沈む。勇者として戦い続けているバーキアですら、それを全うできているとは限らない。
 だけど、とアズールは思う。
「それを言えるだけでも大したものだと。少なくとも、俺には考えもつかなかった考えだ」
「そう思う必要すらなかったのでは? 私たちは言葉に出さずとも歩けます。ならば、言葉にせずとも出来ていたとしてもおかしくない……違いますか?」
「そんな大した人間だった自信はないなあー」
 今は人間ですらない。
「だからあれだ。人の話を聞かせてくれよ。人スッゲー、ってなるようなやつ」
「生憎と当店ではそのようなメニューは扱っておりません」
「じゃあ、勇名を教えてくれ。なるべく強いのがいいな」
「バーキア様の名を知っていて、それでも勇名を問う。ならば、それこそもっと大きな街で聞くべきかと」
「確かにその通りなんだけど……」
 この国の最大の街にいた頃はそんな考えは無かったし、もう戻ることも出来ない場所だ。
 これから国を抜けることを考えれば、せめて当てぐらいはつけておきたい。人外の身だからこそ時間だけはあるが、何の当てもなしに旅を続けていられるほど余裕があるわけでもない。
「ああ、けど」
 力なく落とした視線は、老店主のその言葉によって引き上げられる。
「人として凄いかどうか、勇名かどうかはともかく、瞳にやけに力がある人はいましたね。"不条理は無い?"と聞いて回って、ないと分かると直ぐに村を出ましたけど」
「へえ。……何だそりゃ」
 正直職業が推定できない。伊達や酔狂で旅を続けるにはこの世界は危険であり、そして何より金が要る。傭兵は金のために戦いを求めるが、それこそ金の匂いのある場所へ行く。騎士はそもそも国のために自由には動けない。だからといって商人とも考えにくい。
 村人に尋ねて回っているということは何らかの目的があるのだろうが、その先が分からない。まさかアズールのように殺してくれる誰かを探しているわけでもないだろう。
 考えても答えの出ないことを考えていると、老店主の言葉が続く。
「真っ直ぐな目の輝きでしたよ。昔、自分の若い頃にあんな目をしていたかどうか、眩しすぎて直視できないほどに」
 ならば少なくとも希望を抱いていることだろう。絶望を抱えて生きるものもいれば、希望を抱えて生きるものもいる。
「思えば、それこそ勇者様のおかげなんでしょうね。この人が言うように世界はご機嫌とはいいがたいですが、それでも昔に比べれば大分ましです。獣の牙に食われて死ぬことばかりを考えていた時代とは比べ物にならない。絶望に沈むだけではなく、希望を抱いていけるような世になったんですから」
「昔よりいいとそう思えるのか?」
「ええ、勿論。自身を以って断言しますよ」
「そうか」
 老店主の肌に刻まれた皴は深い。それこそ双色の勇者の時代を知っていてもおかしくない。
 かつてと今を知るものが、今を喜んでくれているのだ。
 それだけで自分たちの戦いには意味があったと、そう思える。
「それで、その希望に満ちたやつはどっちへ?」
「国境へと向かう道を聞いたので、多分そっちへ行ったんじゃないかと」
「ありがとうよ」
 酒代と情報量、さらに感謝の気持ちをあわせて置いて、席を立つ。向かうのならば早いほうがいいだろう。この世界には脅威が満ちていて、さらに自ら脅威へと向かっているものだ。何が起きるか分からない。
 少なくとも、アズールは死んだ誰かより生きた誰かに会いたい。
 もしかしたら前向きになれる話が聞けるかもしれないのだ。
 そう思うアズールの思考はきっと前向きだ。

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