声を聞いた。
自らを呼ぶ声が聞こえた気がした。
だから引かれるように意識は覚醒する。
過去よりの目覚めはいつであろうと唐突であり、唐突であるからこそ現在が過去ではないことを認識できる。何もかもを置き去りにしたくはないが、置き去りにするしかないからこそ一瞬の間に別離があり、何もかもが唐突だと感じてしまう。
全てが唐突だった。
過去との別離と同時に、現在の全てがアズールの感覚を通じて流れ込んできた。
喰われる自分も、零れ落ちる力も、未だ消えない呼び声も。
全てをアズールは理解した。
理解は行動で示される。自らを喰らう不遜を砕き、零れ落ちる力を引き寄せ、呼び声へと手を伸ばした。
伸ばした手が呼び声に触れると、澄んだ音と共に割り砕けるものがあった。
よく慣れ親しんだものであり、しかし余り自らの手で触れることは無かったものだ。
音の砕片は刃の形をしていた。
「アズール!」
砕けた刃の向こう側には女の必死から生まれた泣き顔と、確かな呼び声があった。
「ああ、聞こえている」
土塊の中から這い出すように立ち上がり、見た。
砕けた斧を握る両手が血の赤に染まるほど刃を振り続け、獣の力を僅かとはいえ喰らった蛇の群れを抜けるために無茶をしたルキがそこにいた。
力の差は歴然。人であり、人外ではないのだ。弱者でしかない。
無謀だ。力の差を考えれば、ことをなす前に自らが果てる。
しかし彼女は、諦めなかった。かつての勇者と同じ始まりの想いを持つルキは、自らの力の限界を理解し、無謀を理解して、だからこそ自らのできる限りのことをしたのだ。
そしてそれは本来であれば彼女が負う必要の無かった傷だ。
アズールが喰われたのは、あくまでアズールの諦観が原因だ。戦場で自ら諦観を抱いたものを救うなど馬鹿げている。生きる意志が無いのであれば、放っておいてもいずれ死ぬのだ。
自らの命を賭けてまで救う理由などどこにもありはしない。
恐らくは、そんなことルキは知っていたのだろう。馬鹿げたことだと知っていてなお、見捨てなかったのだろう。だから負う必要の無い傷を負ってまで、力を尽くしたのだ。
何故ならば、それが彼女の想いだからこそ。
人を助けるために人外へと挑む彼女だ。たとえどれほどに困難であろうと、不可能でない限りは自らの想いと共に挑むのだ。
アズールがたとえ人ではなくとも、ルキにとっては助けるべき存在だったのだろう。
彼女からアズールがどう見えているかは知らない。きっと理解も出来ない。
それは彼女だけの世界だからだ。アズールもまた自らの世界を持つ以上は、完全に理解など出来ない。
出来るのは、触れ合うことだけだ。
あるいは共有できるのかもしれないが、今はそのときではない。
「助かった。礼を言う」
「礼なんて珍しいものいいから! 早く下がらないと――」
見れば、もう戦場にいるのはルキだけだ。他のものたちはこれ以上の被害を出す前に撤退したのだろう。打ち捨てられた幾つかの人の形を見る限り、とても無事とは言いがたい状況だ。
賢明な選択だ。蛇は脅威を増し、人には遠く離れた山を削る手立てはない。今は時を稼ぎ、騎士団の到着を待つのがきっと正解だ。理想に殉じるのも悪くは無いが、命を捨て去ることだけは愚の極みだ。次の機会を待つ、という選択もまた理想を求めるための戦いだと知っているものだけが次へと進める。
ルキには次がある。
アズール・メーティスに次は無い。
人としての命を使い果たし、勇者としての名すら失われ、最早全てが過去となった。
人間アズール・メーティスに次は無い。
だから。
「下がる必要も、逃げる必要も無い」
「え? 待ってよ! いくらアズールが強いって言っても……」
「勝てない道理なんてどこにも無いさ」
戦わない道理もまたどこにも無い。
ルキは自らの力の限りを尽くして、懸命に戦った。自らの守りたいものを守るために、自らより強大な存在を相手に。
その姿と抱く想いは、かつてを髣髴とさせる。
そう、とアズールの心の中で言葉が生まれる。
かつて、そんな仲間と友と共に戦っていたのだ。
自らの守りたいものを守るために、想いを共にし、自らの命を賭けて。苦汁を舐め、辛酸を味わい、それでも絶望と諦観を踏破し、幾多の戦いの果てにはついに勝利を手にした。
自らもまた、そんな彼らの仲間だったのだ。
その事実だけは決して消えはしない。たとえ何を失おうとも、過去は不変なのだ。アズールの中に誇るべき過去として今も刻み込まれている。
その過去を誇るのならば。
今この場で退くという選択などありはしない。
恐らくは騎士団が到着すれば、状況は打破されるだろう。最悪の場合はバーキアが前線に出てくれば、どうにかするだろうという信頼はある。
だが、それまで無事でいられる保証はどこにも無い。人外にとっていくら人が弱者であろうと、わざわざ抗ったものたちを生かしておくと思うのは楽観が過ぎる。
正直に言えば、ルキを含めてアズールにとってはどうでもいいものたちばかりだ。有象無象がどうなろうと、本音ではどうでもいい。人間に絶望したこともまた事実に違いないのだ。
それでも、守りたいものがあるのだ。
ルキがそうだったように、アズールにもまた守りたいものがある。
バーキアやコンティニアスの仲間であり友であったという自らの誇りを。
多くのものを失ってしまったからこそ、自らの中で今まで以上に輝き、だからこそ失ってはならないと改めてそう思える。
人間ではなくとも、人外となっても、誇りはあるのだ。
「俺はアズールだ」
「そんなのは知ってるわよ。そんなことより、早く逃げないと!」
「そんなことじゃあないんだよ。それが一番大事なんだ」
ルキとはじめて出会ったときに、アズールの名が勇者と同じだと言われた。
その通り、同じ名だ。
しかしもう別人なのだ。
かつての紫紺の勇者アズール・メーティスはもうどこにもいない。
ここにいるのはただのアズールだ。
かつての始まりには、勇者の名も家名もなかった。ただ仲間と友がいたのだ。
だからこれでいい。
ただのアズールでいい。
新たな始まりとなる今は、かつてから続く誇りだけがこの胸にあればいい。
「それに――そいつは俺の力だ。返してもらうぞ」
ルキを背に置き、既にアズールの目は巨山へと向いていた。
自ら望んで力を解放する。もうそのときにはルキのことなど頭には無かった。
視界に映る敵だけが全てであり、それを喰らうことこそが至上の望みとなる。
巨山が映る。頭を上げる無数の土の蛇が映る。
強大な人外だ。弱者たる人が独りで勝てる相手ではない。かつてのように仲間がいるわけでも、友がいるわけでもない。
戦場に戦意を持って立っているのはアズールだけだ。
しかし無謀などではない。理想に殉じた特攻などでもない。
敗北の可能性など微塵も無い。
あるのは絶対的な勝利だけだ。
「喰らえ」
迫りくる無数の蛇の顎が、同じく無数の獣に噛み砕かれる。
アズールの意に応えて虚空より現出したのは、かつて幾度と無く戦いを繰り広げた獣だ。だが完全な姿をしているわけではない。姿は確かな実体を持たず、幻影のように揺れ動く存在だ。
かつてアズールが打倒した獣達の怨念が、顕現したものに過ぎない。そのため今もなお怨嗟の叫びを上げ続け、アズールへと呪いを吐き続けている。それでもアズールへと従うのは、アズールが同時に獣の王でもあるからだ。
だから獣達は怨嗟の叫びと共にアズールの意志へと追従する。
蛇など物の数ではない。所詮は一地域で畏怖される存在でしかないのだ。
世界を平らにするために、数々の世界を喰い荒らした獣に匹敵するはずが無い。
同じ人外であっても余りにも圧倒的な力の差。
それこそかつてアズールが痛いほどに望んだものだ。何度と無く力の足りない自らを嘆き、そのたびに更なる力を求めた。
それがこれだ。戦って、戦って、戦い抜いた果てに、アズールが得たものだ。
望んでやまなかった人外の力。世界を平らにする獣の力だ。
かつて痛いほどに望んだものが、望みのままにここにある。
自らの得たものを正しく理解し、その実感を今更のように掴めば、歓喜が零れる。
自らの内に留めて置けないほどの歓喜が溢れ、哄笑として世界に響く。連なるように獣の咆哮もまた響き渡る。
ついには戦いがここにはあるのだ。獣が待ち望んだ戦いがあるのだ。
獣は歓喜を以って戦いを喰らう。
そしてアズールは歓喜と共に戦いに向かう。
果たして、アズールと獣は完全な合致に至る。
だからこそ、このときこそがアズールの人としての本当の最後となった。
今まで人でなくなってしまったことを悲しんでいたが、諦めから人外となった自分を認めたわけではない。アズールには自信がある。かつてで語られる過去の中、確かに自らの無力を嘆いたが、常に全力を尽くしたのだ。どれだけ繰り返そうとも、同じ選択を繰り返すだろう。
自らの人生を仲間と友と全力で駆け抜けた。
嘆きがあろうとも、後悔は無い。
人であることを諦めたのではない。諦観など微塵もありはしない。
人間アズール・メーティスの全てを肯定できる。
過去の全てが肯定できるならば、その果てにある現在もまた肯定できるのだ。
自らは過去の続きに立っているのだから。
何よりも、かつてで語られる過去の中、いつかの未来と力を望んだことはあっても、一度として人であることを望んだことなど無いのだ。
正しく望みの先にいる。
かつて望んだいつかの中に身を置き、望んだ力がこの手にある。
この胸には誓いがある。
ならば歓喜とともに進める。仲間も友も隣には誰もいない悲しみはあるが、しかし絶望は無い。仲間と友が作り上げたいつかの世界を呼吸することが出来、自らの力で守ることが出来るのだ。
身を裂かんばかりの歓喜が力として顕現する。
いつかの自分がかつての自分を肯定できるように、気に入らない未来を否定する。
力とはそのためにあるのだ。そのためにこそ振るうのだ。
歓喜の力の向き先は、巨山だ。アズールが勝ち得た力を僅かなりとも吸い上げ、自らのものとしている身の程を知らないものを叩き潰さなければならない。
意思が向かえば、獣は咆哮とともに追従する。立ちふさがる蛇など物の数ではない。獣の牙を前に、風の先頭を行く疾走を止められるものなど無い。人間であれば超えることの出来ない距離を獣は優に踏破していく。
蹂躙。正しくこの言葉こそが相応しい光景が展開される。
現れる蛇を片端から喰いちぎり、着々と獣は距離をつめる。大地を通して力を吸おうとも関係はない。草木は枯れていくが、アズールの力は枯れることは無く、逆に獣が喰らうことによって力は増していく。
そして、ついに獣は距離を零にし、その爪牙が不遜な巨山へと届く。
その直前、爪牙を届かせようとしていた獣の全てが雲散した。
人外の攻撃ではない。ある一定の距離から向こうへと獣が歩を進めた場合に同様のことが発生している。
事態に対する軽い驚きはあったが、直ぐに理解は届いた。
顕現する獣はあくまでアズールに向けられた怨念とでも言うべきものが形を得たものだ。アズールが同時に獣の王であるからこそ追従しているが、その矛先は本来アズールだ。そのため中心であるアズールから一定の距離が開いてしまえば、その姿は雲散してしまう。
何もかもが始めての出来事だが、当然のように理解はあった。それが恐らくは獣の知見なのだろうが、ならば等しくアズールのものだ。
獣の爪牙が実際に届かないと知ってか、巨山からの攻撃は激しさを増す。どれも等しくアズールには届かず獣に喰いちぎられるが、それでも調子に乗っていることはわかる。
人外であるにもかかわらず、当然の理が理解できていない。
距離など今のアズールにとって無いにも等しいものだ。一足でも詰めれば、それだけで獣の爪牙は届く。
だが、今はその確かなことよりも、この先のために自らの可能性を知りたかった。
単純に距離が問題となっているが、怨念という想念だけで顕現しようとするから距離に縛られるのであって、それよりも顕現するためのより確かな依代があれば問題はないはずだ。
鎖が放つ。
意思を這わせる。
それだけで暗銀の鎖は変貌を遂げ、確かな獣の姿が現出する。
先ほどまでの幻影のような姿ではなく、確かに地を駆け、強大な力とともに敵を屠る。
「こうか――」
自らの中に在る力の一つ一つを確かめるように、戦場を進める。
顕現した獣の爪牙は今度こそ、巨山へと届く。流石に天を衝く巨山を一度に喰らうことはできないが、爪牙が無力なわけではない。一撃ごとに巨山を削り、確実にその身は失われていく。
巨山は自らが通じる大地を通して力を吸い上げ、再生と復元を行うが、それで獣の侵攻を止められるわけでもない。だが獣がいくら喰らおうとも、巨山が復元を行い、やがてそれは拮抗を迎える。
千日手に陥れば、あるいは体力の差でアズールの敗北があるのかもしれない。人よりも遥かに強大な肉体を持つとはいえ、単純な体力だけを比較すれば、力を吸い上げることのできる巨山が有利なのは明確だ。
しかし、その可能性は一つとしてない。
人外同士の戦いに偶然や番狂わせなど無い。
全ての決着は必然であり、予定調和だ。
強者の勝利と敗者の敗北を以ってのみ決着がつく。
相対したときには、既に勝敗が決まっている。何故ならば、人外に未知などはないからだ。全てが自らの既知の中にあり、だからこそ限界を超えるという可能性を持たない。未完成な状態で世界に現出するのではなく、完成された状態で世界に現出するからこそ、全ての可能性は完結してしまっている。
だからこそ、この戦いにアズールの敗北は無い。
そもそも拮抗とは、最小の力で崩れるからこそ拮抗なのだ。
歓喜と共に戦いに向かうアズールにとって、現状の拮抗など無いに等しい。それを証明するように、最早拮抗は崩れていた。巨山の復元は追いつかず、獣の爪牙が一方的に巨山を削っていく。
可能性が完結しているのは獣も同様だ。喰らう速度が上がったわけではない。
単に獣の数が倍加しただけだ。
獣とは、歓喜と共に戦いを喰らい、戦いに喜びを感じれば感じるほどに数を増す。はじめは一個体であっても、歓喜の戦いであればいつしか群れを成すのだ。
かつて無謀とも取れる短期決戦を双色の勇者が望んだのは、人間側の消耗も理由の一つだったが、最大の理由がこれだ。獣の特性上、戦いが長引けば長引くだけ人間の勝ち目がなくなるのだ。
いやというほどに苦しめられた力が、今は共にあり、圧倒的という言葉で敵を喰らう。
残るのは当然の結果だけ。
世界を平らにするために戦いを喰らう獣の勝利と、平らな大地だけがそこにはある。
これが今のアズールの力だ。
かつて望んだ力を、現在の望みのために振るえる。
自らの背に怯えを感じたとしても、やはり後悔は無かった。
淡い期待など始めからなく、最初から分かりきった結末を理解して戦ったのだ。
人間ではなく、人外となったのだから。
そして、これからもきっとそうなのだろう。