ありふれた御伽噺。
ルキの説明を聞いたアズールの感想は、正しくそれだった。
元々この村では、地力も高くなく作物は不作。さらに聳える巨山のせいで交通の便も悪い。無論、人外の被害は当然のようにあった。
それでも作物は出来ないわけではなく、交通が閉ざされているわけでもなく、人外の被害が少ない場所など知らなかった。だから、かつて人がいついてしまった。
それからは徐々にだが人口が増えだし、村としての体をなせるようになった。
人口が増えれば当たり前のように食べるものが今まで以上に必要となる。だが拡大できるだけの人手があるわけでも、豊作を見込めるほどの地力があるわけでもなかった。そしてどこかに移り住もうにも老人や子供を抱えての長旅は難しい。何よりも改めて流浪の身となるのは誰にとっても辛い選択だ。
村の長と連なるものたちは連日頭を悩ませたが、解決策は浮かばない。ついには口減らしまでも考えたが、働き手を削ればそれだけ収穫も減る。老人や子供に出稼ぎを見込めるわけでもなく、殺すには忍びない。
悩みは変わらず、時だけが過ぎ、分かりきった結末が直ぐそばに来ていた。
そんなときだ。
いつものように答えの出ない会合に出席していた全員が声を聞いたのは。
曰く。
「捧げよ。されば相応のものをくれてやる」
声はただ一度きり。それ以上は誰何の声に応えることもなく、沈黙だけが響いた。
しかし、問いを放つと言うことは、全員が声を聞いたのだ。
姿なき声。その主は果たして誰なのか。何ものなのか。
誰もが考えたが、答えは出ない。そもそも答えの出ない会合に出席していたのだ。答えが出る道理はひとつとしてなかった。
だから、一つの明確な答えは、やはり答えの出なかった会合が終わった翌朝にあった。
村の娘の首筋に蛇に噛まれたような傷跡があったと騒ぎが起きた。蛇と言えば不吉の象徴であり、人に仇なす最たるものでもある。
それを単なる偶然と捉えるものは、あの声を聞いたものの中では誰一人としていなかった。
そして異議を唱えるものも。
どちらにせよ口減らしは必要だった。その決断をすることが出来なかっただけだ。
状況が後押しすれば、何もかも自動的に行われた。
必要だったのは、ただ一つの意思。
だから彼らは捧げた。
場所も時間も指定されていない。どうすればいいかも不明。
それでもそんなことに意味は無いと誰もが知っていた。
人は人を救えない。人を救えるのは人ならざるものだけだ。
人でなければ、それは即ち人外でしかない。人の理の外に位置する存在。ならば人の道理も都合も関係ない。意思が示されれば何もかもが人の道理も都合も無視して進んでいく。
全てを理解して、理解したからこそ捧げた。
その日、村からひとりの娘が消えた。
その日、村の作物は増え、人外の脅威も減少した。
その因果関係を知るものは少ない。それこそ血だけが伝えていたものだ。血が命じるままに繰り返していたからこそ、村は現在の状態を保っている。そう信じている。
何代それが繰り返されたのか。詳しい記録は残っていないが、ついに当代になって慙愧の念に耐えられなくなったそうだ。
だがしかし、どうすればいいのかも分からない。相手が人外である。その一事だけしか分からないが、その一事こそが誰をも躊躇わせる。かといって国に請うわけにもいかない。交通の便が悪いために騎士団の派遣は困難であり、仮に騎士団が派遣されたとしたら村が行ってきたことの全てが明らかになる。
代は巡り、再び答えの出ない悩みが村に現れた。
ありふれた御伽噺であるのならば、人が後悔を知って、行いを改めることを決心して、一致団結によって問題を解決する。賛否は知らないが、それが圧倒的多数を占める。
所詮御伽噺というのは、物語を通して人の可能性を読み聞かせるものだ。どうしたところで後味の悪いものなど存在せず、解決しない問題もない。
村の置かれた状況は正しく御伽噺のような状況だ。
御伽噺と幾つか異なるのは、これが現実であることと、関わるのがルキという点。
物語のように分かりやすい答えがあるわけでもない。仮に人外を打破すれば状況が解決するのだとしても、その相手の姿すら誰も見たことはないのだ。
よくこんな状況に首を突っ込むものだとアズールは素直に感心する。また、だからこそルキなのだろうと逆説的な考えも浮かぶ。アズールがルキと共にした時間は短いが、それでもそう思える程度には何かを見たのだろう。
そうして御伽噺に似た現実へとルキと、ルキが金で集めた傭兵が挑む。村へと集まったのは二十人だったが、うち三人は状況を解決するよりもルキの金を奪ったほうが早いと判断し、昨夜アズールとルキを襲ったので、縄で縛って転がしてある。
総勢十八人。騎士が人外を相手にするのならば、絶対に負けられないためにより多くを用意するだろうが、ルキの資金にも限界がある。決して多くは無いが、少なくも無い人数。
可能性が無いわけでもない。
やはりどこか他人事のようにアズールは思う。実際にアズールもまたルキと同じ場所に立っているにもかかわらず。
これが人の事情だからかもしれない。
人外の獣にとって人は餌に過ぎなかった。そしてアズールにとって人は守るべきものでありながらも、同時にそれだけの存在でしかなかった。バーキアやかつての仲間達のような実際に面識のある相手ならばともかく、見ず知らずの人間など単なる人という記号に過ぎない。
人外の身となった今、その認識が合わさって関心が薄れているのかもしれない。まだ人を餌と感じることは無いが、いつか来るのかと怯えなければならないのだろうか。それとも当然と感じてしまえば、怯えは必要なくなるのか。
答えは出ない。
「アズール」
ルキの声が答えの出ない思考から意識を現実へと引き戻す。
「あの子のこと、お願いね」
「……ああ」
生贄に選ばれた娘は眠っている。自らが捧げられるとも知らない娘だが、しかし捧げられようとしていた娘だ。事実を話して協力を請うことは無意味。だが協力が無ければ村の中で捧げられてしまう。
相手が人外であるのならば、たとえ戦いに勝ったとしても村は無事ではすまない。
だから娘は眠っている。眠って、村から遠く離れた場所にいる。
草も生えない荒れた土地だ。見えるのはもうそれこそ巨大な山だけだ。とても近くの村で豊富な作物が取れるとは信じがたい。
だからこそ人外なのだろう。人外だからこそ可能なのだろう。
アズールと共にある獣はただ喰らうだけの存在だが、その力の方向が変わるだけで余りにも違う結果が生み出されている。もっとも結局は人を生贄に捧げさせているのだから、やはり大した違いがあるとも思えない。
その通り、相手は人外だ。
人には分からない。理解できない。
故に戦うしかない。
望みがあり、それを通そうとするのならば。
総勢十八人。その持てる力の全てを尽くして戦うのだ。
勿論、誰もが理由を持っている。
その多くは金のためだ。それを馬鹿にするつもりは無い。生きるためにこそ求めるのならば、生を渇望することに等しい。生きることを諦めてないということは、それだけで賞賛に値することだ。
かつて人外の獣の暴力の前に立ったとき、恐怖と絶望に塗り潰されたアズールだからこそ素直に尊敬できる。
たとえ彼らが真の意味で知らないのだとしても。
その彼らを率いる立場にあるルキが何を思っているのかは知らない。
問いはしない。アズールに現実を突きつけられ、自らも現実に挑み、それでもなおここにいるのだ。最早アズールの理解を超えた存在となった。愚者なのか、賢者なのか、それとも全く違う何かなのか。
かつての勇者と同じ始まりを持つ彼女がどこへ行くのか。
何を望んでいるのか。
御伽噺と同じ状況の中で、御伽噺と同じ結末を望むのか。
万人が幸せな結末などありはしない。
後悔無く生きて戦い、勇者と呼ばれた男の結末をアズールは知っている。最善を尽くし、全力を賭し、自らの命すら使い果たし、それでも望んだいつかにたどり着けなかった男を知っているのだ。
紫紺の勇者アズール・メーティスの生涯を知っている。
だからきっとこの結末には、相応の何かが待っている。
御伽噺とは違うのだ。無邪気に人の素晴らしさと尊さを信じられる時代は終わってしまった。人としての生を終えたからこそ、現実の結末を知っている。
それとも、違う結末があるのならば。
何があるのだろうか。
答えを知らないアズールには分からない。
分かることと言えば、一つだけ。
「――来るぞ」
かつてを戦い抜いた感性が、そう告げた。
その瞬間、御伽噺と同じ状況の現実の中、大地が口を開いた。