決意の在り処

在るのならば答えられる
無いのならば答えられない
その程度のものではない

 アズールやバーキアが生まれるよりも遥か彼方、かつてという言葉では追いつけないほどの昔。人が人外を打倒する可能性を手に入れた時代に形作られた対人外における戦闘の基本。
 一対多数は勿論、距離の把握、攻撃と防御の完全な役振り、そして常に全力で挑む。
 ルキがどういう基準で選定したのか知らないが、誰もが基本を理解して実践していた。大地によって形成された蛇の攻撃を決して受け止めることはせず、回避と受け流すことに専念し、相手の隙には確実に全力の攻撃を叩き込む。手数で勝るからこその戦いであり、騎士団ほどの練度はないだろうが十分に機能している。
 所詮は金で集まった寄せ集めの集団だ。指揮を取ろうとしても信頼関係がない以上は、指示に疑いが残り、疑念が行動を鈍らせる。だからこそ最早戦場は個々の判断の組み合わせで展開されている。本来ならばどこかで破綻を来たし、その一度の失策で人外に喰われる程の稚拙な考えだが、それでも現実は未だその結末を見せない。
 ルキが飛び回り、綻びを繕う。防御にも攻撃にも積極的に参加しているわけではないが、人外の行動を先読みして、足りないと思われる部分に自ら飛び込んでいく。読みが確実に当たるわけではないが、そう外れているわけではない。何よりも防御に比重を置いているためか、まだ問題は顕在化していない。
 顕在化するまでもないだけだ。
 人の戦術が機能し、問題は顕在化していない。人外と戦えている。
 それだけだ。
 一方的な勝利を収められるほど圧倒的ではなく、一方的な敗北を得るほど絶望的でもないだけに過ぎない。相手は人外だ。触れれば消し飛ぶ人の身では攻撃を捌くだけでも精神が削れる。さらに戦いが長期化していけば体力が奪われ、判断力も低下する。
 今はまだ戦えているという現状に過ぎない。
 当然のように誰もがそれを理解している。だが、理解が解決を呼ぶわけではない。攻撃は蛇を直撃するが、僅かに身体が削れるだけで痛みを見せるわけでもなければ血を流すわけでもない。
 相手が人外であることは理解している。人外が人の理の外に位置する存在だということも。
 それでも人外との戦闘経験があるものは、違和感を得る。蛇は人外だが、果たして本当に敵なのか。殺意があり、害意がある。だがそこに違和感がある。距離感と言い換えてもいいものだ。目の前に人外が立てば、それだけで触れられるほどの質量を持った威圧感が肌を刺す。
 今もその威圧感はある。肌を刺し、突き抜け、人の心の最奥から恐怖を呼び覚ますものだ。
 しかし、とアズールは思う。
 民家を楽に飲み込めるほどの巨体を持つ蛇の人外を目にして、全く相手を感じない。自らが人外となったからではない。人外となったからこそ、感覚は優に人を凌駕している。だからこそ、逆に相手の存在を感じないのだ。
 まるで戦場に相手がいないかのような寂寞とした感じすらある。
 一度そう感じてしまうと、ルキと傭兵達の戦闘が響かせる音すら空々しく感じる。誰もが自らの命を危険に晒して戦っているのだろうが、相手が不在の戦場では滑稽でしかない。
 意詞を叫び、力を尽くし、死を恐れて戦っても、それを届かせる相手がいない。
 あるいは相手の不在こそが戦える最大の理由なのかもしれない。本来であれば、誰もが自らの死を至近に感じた直後にまともな戦闘をこなせることがおかしいのだ。かつてのアズールは指先一つまともに動かせず、ただいうことを聞かない心臓が送り出す血流の音だけが記憶に残っている。アズールが勇敢ではなかったことは確かだが、特別に臆病なわけでもない。そしてこの場にいる全員がかつてのアズール以上に勇気に不足を感じないとも思えない。
 誰もが感じているのだろう。意識して理解したものか、無意識に感じているかの違いはあっても。
 誰もが人外を前にしたときの恐怖を知っている。故に恐怖の質の差が理解できる。
 距離感から生まれる存在の希薄さ。それは戦いが続けば続くほどに明確となり、自らの動きを意識できるようになる。相手の存在が希薄であっても、目の前の脅威がなくなるわけでもなく、そして打倒不可能なわけでもないと直感が生まれる。
 その瞬間、ルキたちは蛇の打倒を果たす。
 血を流しつくすわけでも、絶叫を残すわけでも、命を零すわけでもない。ただ蛇の身体を構成していた大地が欠片一つ残さず再び大地に還った。
 そこに勝ち鬨はない。
 相手の存在の希薄さを理解したのと同様に、またそれが勝利ではないことを誰もが理解していた。
 戦いではあったが、勝利はない。ならばまだ戦いは終わっていない。
 当然の理を当然としているのは、その場では恐らくアズールだけだった。
 ルキたちが一体の蛇を倒す間に、既にアズールは三対の蛇を破壊している。倒しても限がなく、今もまた新たな蛇が一体現れる。最早蛇の存在などないに等しい。力の一振りで大地へと還る存在でしかない。
 問題は、蛇をいくら破壊したとしても解決には至らないことだ。
 蛇に力はあるが、存在がない。無数に生まれる蛇が、仮に末端だとするのならば、蛇を生み出す根源がどこかにある。勿論、誰もがそれを理解し始めていた。しかし、それでも見つけられない。
 人外の姿はどこにもない。
 遮蔽物のない開けた場所だ。遠くに見える巨山や森を除けば、他には何もない。アズールやる気たちのほかには、生まれ出てくる蛇しかいない。
 そもそも人外が人から隠れる理由など一つもないのだ。圧倒的な強者である人外は人を恐れず、脅威と見做さない。ただそれが自然であるように現れ、蹂躙する。策など無用とするだけの単純な暴力を行使するのだから。
 勇者としての経験を持つアズールでさえ、相手の存在が掴めないことは初めてだ。影さえ踏めない速度を持つものはいたが、それでも存在を感じられないことはなかった。
 未知との遭遇に戸惑う間にも蛇は生まれてくる。脅威ではないが、精神に負担がないわけでもなく、体力が無限にあるわけでもない。打開策が見つからなければ、いずれは破綻が約束された状況だ。
 人外となってはじめてアズールの中に焦りにも似た感情が生まれる。
 絶え間なく生まれる蛇を破壊し続けながら、背を焼く焦燥によって思考は熱を帯び、加速する。
 敵の不在などありえない。人外が姿を隠す理由もない。しかしどこにも姿は見えず、蛇を生み出すために用いられるはずの力の偏差すら感じられない。ただ肌を刺す威圧感だけがこの場にはある。
 何かを見落としている。
 それが何かが分からない。思考を巡らし、感覚を研ぎ澄ますが、視界に映るものは何一つとして変化しない。
 いくら人外の身となろうと、あくまで人としての生しか知らないアズールには人外の感覚を完全に使いこなしているわけではない。感覚は鋭敏化しているが、それを処理するのはあくまでもアズールなのだ。得られる情報の中から、理解できるものだけを理解しているに過ぎない。
 正解は既にあるのだ。それを理解する術がアズールにはない。
 だから。
 だからと言うように、それを理解できるものが解答を告げる。
 人に理解できないものを理解し、告げるものは決まっている。
 獣の咆哮が走る。

inserted by FC2 system