決意の在り処

在るのならば答えられる
無いのならば答えられない
その程度のものではない

 獣の咆哮は、正しく力の疾駆に他ならない。
 行く先に立ち塞がるものを打ち倒し、駆け抜けたあとには蹂躙された景色だけが残る。
 かつて嫌というほどに聞いた咆哮が再び響き、目の前に広がる光景が現実を突きつける。
 大気を食い削り、大地を割り砕き、視界の彼方へと消えていく力の軌跡。
 瞬間。何が起きたのかを理解したものは、アズールを含めて誰一人としていなかった。
 しかし、だからこそ人とは異なる背景を持つアズールだけが僅かな時を経て理解へとたどり着いた。
 獣の咆哮が響いたのならば、獣がいるのは必然だ。
 そして、この場に存在する獣はアズールしかいない。
 アズールすら理解しない獣の咆哮は、間違いなくアズールより放たれた。腕一つ、指先一つ、そのために動かしてなどいないが、咆哮は放たれた。それだけが事実だ。
 いつそうなったのか分からない。
 だがそうなったのだ。
 まだ時間はある。そう自らが信じていた現実は、錯覚に過ぎなかった。
 既にアズールは獣となっている。
 そして獣が目を覚ましている。
 世界を平らにするために、世界を喰らい尽くすために、あらゆる世界を走り抜けた獣が目を覚ましたのだ。
 この場に何があるか、誰に問うまでもない。
『戯れは終わりだ』
 アズールの内より、獣の意思が響く。
 自らの人としての終わりを知ったとき以来、響くことのなかったものが。
 戦いに飢えた獣の意思が響く。
 今まで幾つか戦闘はあったが、そのどれにも反応を示さなかったにもかかわらず、今この場では獣の意思が存在している。
 何がこの場に存在しているのか?
 アズールよりも先に行く獣に追いつこうと、必死に思考を巡らす。直感が恐れを告げている。この瞬間、完全に獣に置き去りにされてしまえば、最早そこにアズールはいないと。獣に置いていかれることを当然と受け止めてしまえば、獣であることに抗えなくなる。最後の一線を諦めが踏み越えてしまう。
 自分が自分でなくなってしまう。
 単純な恐怖ではない。それは肌を刺すようなものでもなく、腹を這うようなものでもない。だが確かに存在し、しかし理解から遠い場所にある。それでも不吉を孕み、存在する。まとわりつく泥のような、それでいて心地よくすらある感覚。
 捕らわれてしまえば、そこにあるのは永久の眠りだ。
 だから思考は加速する。先ほどまで何一つ理解できなかった状況だが、獣という存在が加わったことにより、新たな地平が開かれている。
 戦いに飢え、それでいて最早肉体を失った獣は見境なく戦いを求めるわけでもない。アズールに敗れ、自らを敗者と認めた獣が自らの望みだけで顕現することもない。
 人外は確かに人の理の外に存在し、決して人の理解は届かないが、そこに理が存在しないわけではない。人外には人外の理が存在する。
 そしてその理は、ある意味では単純明快だ。
 自らに嘘はなく、そして敗北を認めたのならば勝者に従う。
『貴様の求める敵はそこだ』
 意思が指し示す先、獣の咆哮が走った跡には一つのものがある。
 大地に根ざす巨山。
 その一端が獣の咆哮によって抉られている。
「まさか……」
 口から漏れた言葉に反応したわけではないだろうが、蛇とは比べ物にならないほどの力の存在が自らの存在を告げる。
 抱いた疑問すら消し飛ぶ。圧倒的な力の存在。戦場に立つものにとって、それこそが何者にも勝る証左だ。
 今まで対してきた人外はどれもが能動的に動くものだったために先入観があった。そもそも人が人外を理解することなど出来ないのならば、先入観などあってはならなかったのだ。不要な先入観が感覚を曇らせ、鈍らせていた。
 それも晴れた。
 敵は明確になり、戦場はここにある。
 戦場を決着させる理は、ただ一つの明確な理。
 勝敗を以って決するしかない。
 やるべきことが目に見えたのならば、後は行動に移ればいい。
 そう捉えたのは、アズールだけだった。
「何よ、これ……」
 ルキの呆然とした声は、その場にいるほとんどのものの代弁だった。
 相手の位置が分かれば戦える。さらに人外が相手だろうとも、確固たる勝利の意思を持つことの出来るものはそう多くない。かつての勇者達ですら、その域に達したのは獣との戦いも終盤にかかろうという頃だった。
 何よりも現実には決して超えられないものがある。
 自らがいて敵がいる。しかし、その間には確かな距離がある。
 巨山の麓まで通常でも五日はかかる距離だ。全速で進んだとしても、どれだけ縮められるか。ましてその後に戦闘を行えるだけの力があるかどうか。だからといって間に横たわる距離を越えて戦闘を行えるだけの力を持つものはいない。
 アズールでさえ不可能だ。
 戦闘とはつまり、自らの間合いの中でしか行えない。
 剣の間合い。鎖の間合い。魔法の間合い。
 アズールの持つ最大の間合いでも、あの巨山までは到底届くものではない。
 それでも、かつては届かない場所などなかった。アズールが届かないものであっても、バーキアならば可能だった。二人は共に戦場に立ち、共に勝利してきたのだから。
 不在の現実は空虚なものだ。
 かつてと現在の差異をはっきりと見せ付け、失ったものばかりを目立たせる。それこそ届かないかつてを望むほどに。
 そして誰もが動きを失った。
 アズールたちにとっては届かない距離であっても、人外にしてみれば届かない距離ではない。現に蛇は顕現し、更なる力は存在している。
 変わらずそこは戦場なのだ。
 人間達にとっての空白の時間は、人外が埋めた。
 土によって形成された蛇が動き、巨山からは巨大な力が発せられる。
 その行動の起点に対し、アズールは間違いなく反応していた。十分に回避できるだけの余裕がそこにはあった。勿論、そうなればルキたちがどうなるかも理解できた。
 思考から決断までの時間は、そう長くはなかった。
 三重に鎖が展開され、アズールたちを囲う。一重であっても囲えば十分な結界を成す鎖だ。三重に囲い、さらには人外となったために力を増している。咄嗟の反応で十分とは言いがたいが、全く無駄ともならないはずだ。
 鎖の結界は蛇を拒み、力の流れを阻む。
 しかし、蛇が破壊されるわけでも、力の流れを避けられたわけでもない。
 あくまでも咄嗟の対応だ。命が繋がっただけでもよしとするしかない。
 たとえ、巨山の放った力が根こそぎ力を奪っていったとしても。
 アズールの背後では、呻きと共に地に倒れ伏す音が聞こえる。アズールもまた膝をつく寸前だ。身体の中から力がこそぎ取られ、意識に靄がかかり、重たい身体を放り出す甘美な誘惑に駆られる。膝をつけば、意識を手放してしまえば、後は自動的に処理される。何も悩む必要はなく、きっと苦しいこと何も感じることはない。確かな終わりがそこにある。
 巨山より発せられ、地を駆け抜けた力は、大地を通して触れる物体の力を奪う。鎖の結界の中にいたからこそ、命が辛うじてある状態だ。結界の外側では動植物の区切りなく、力が奪われた結果が広がっている。草木は枯れて砕け、動物は痩せ朽ちる。そうして奪われた力の行く先は一箇所しかない。先ほど獣の咆哮で抉られた山の一部が復元される。
 あの山だけではない。実際はこの大地までもが人外なのだ。だからこそ人外の力を分け与えられたことにより、作物は豊作となり、また他の人外も寄り付かない。人一人の命で購えるには、破格の交渉だ。
 かつて生贄に捧げたものも、あるいはそれを知っていたのかもしれない。人一人の命で村全体を賄えるのならば、安いものだ。所詮は自分ではない誰かの命だ。顔は悲しみを見せても、腹は痛まない。村人も不自然な減少に直面しながらも、表立って誰も追及しようとはしなかった。意識してか無意識か知らないが、追求すれば自らまで波風が立つことが分かっていたのだ。だから過去の誰かのせいにして、よそ者を雇った。
 自分たちは悪くない。解決のために力を尽くした。
 そう自分を納得させるために。
 力が奪われ、意識の方向がずれれば、考えもしなかったことが思いつく。事実は知らない。確認する方法もない。仮に問いかけても、答えが本当かどうかは本人しか分からない。
 それでもアズールには、そう思えてしまったのだ。
 自分たちが命を賭して守ろうとした人間の姿が。
 醜いとも、愚かだとも思わない。
 ただどうしようもなく滑稽に思えた。
 過去となった仲間たち、現在も力を尽くすバーキア、そして死を求めて彷徨うしかない自分。守ろうとした人間たちは、守られるばかりで自らの命を賭しはしない。挙句、戦いもせずに不平不満を口にするだけの存在。
 ならば永久に守れと言うのか。守り続けるために、戦い続け、その果てに死ねと。それが力を持つものの義務だとでも言うのか。勝利の果てに守護が得られれば口先だけの感謝をし、敗北の末に自らに脅威が及べば恨み言を吐いて。
 それが人間だと言うのならば。そんなものが人間なのならば。
 頭の中で警鐘が鳴る。煩いぐらいに頭の中で響き、思考の全てをかき消そうとする。
 当然だ。これ以上考えてしまえば、どうなるか分かりきっている。
 人間に絶望してしまう。
 だから人間に希望を求めたのだ。ルキ・シェザードに勝手に期待したのだ。
 バーキアでは駄目だった。自分たちが守ったと誇れる若い世代でなければ、意味がなかった。そうでなければ、自分たちの全てが無意味に思えてしまう。
 完全に人外となってしまう前に。
 死んでしまう前に。
 胸を張って、自分たちが命を賭して得られたこの現在が素晴らしいものだと知りたかった。
 かつて夢見たいつかは確かにあったのだと。確かに掴めたのだと。
 もう何もかもが遅い。
 目の前には蛇がいる。
『そうか。死にたいのか』
 蛇が言葉を繰る。耳に届くのは、人の言葉ではないが、その言葉の意思が一方的に伝えられる。蛇を通して巨山の人外の意がアズールへと届く。
 何をどう理解したのか。どうしてその意が汲まれたのか。人外ならば不思議でもない。人の理の外に位置し、人にとって不可能なことであるとも人外にとって不可能なことであるとは限らないだけだ。
 ただ人外はアズールの望みを知り、言葉を投げてくる。
『死にたいのならば、殺してやろう。その存在を余さず喰らってやる』
 英雄を捨て去り、人間が人外から勝利を得る最古の御伽噺。その中で存在する最強の人外として語られるものが白き絶望の蛇だ。それ以降、不吉を孕む象徴として、あるいは災厄の象徴として蛇が存在する。
 だとすればアズールの目の前にいる蛇は何を象徴しているのか。
 分からない。思考すら放棄してしまいたい。
 心が何を感じているのか。数多くの思いが渦巻いており、どれが本当のものなのか分かりはしない。
 その中から人外はアズールの心の中を読み取り、答えを出した。
『――捧げるといい』
 だったら。
 そう思ってしまった。
 次の瞬間には、鎖は宙に溶け、アズールは膝をついていた。
「アズール!?」
 誰かの叫ぶ声が聞こえたが、直ぐに聞こえなくなる。
 諦めを蛇が喰らった。

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