かつての誓いと

交わした言葉が失われ
込めた意味が忘れられ
それでもいつか果たされる

 山積し始めていた日常業務を片付けると、日が変わろうとしていた。
 正確な時間は分からないが、バーキアの体感時間に未だ狂いは無い。
 明日もまた登城しなければならないことを考えると執務室で一晩を過ごしたほうがいい気もするが、ここ最近は仕事のために家を開ける機会が多くなっていることを思い出す。
 家に戻ったとしても、仕事を持ち込むことになる。結局はどちらにせよ、妻にいい顔はされない。
 仕事に関して妻は理解しているが、感情がそれで納得できるわけも無い。まして今はバーキアがアズールを庇ったために、仲はますます冷え込んでいる。些細なことであろうと相手を刺激することになってしまう。
 結婚自体を後悔することは無いが、友や仲間たちと過ごしていたときには感じなかった窮屈さだ。かつてを共に過ごしたものの多くは結婚し、子をなしていたが、同様の感想を抱いたのだろうか。
 記憶を遡れば、偶に聞いたような気もする。些細なことが原因であることもあれば、お互いに譲れないことであったり、他人にとってはどうでもいい事だったりした。そういう何もかもを乗り越えて人生を全うした友や仲間を本当に尊敬する。
 諦めに膝は屈しなくとも、家庭生活に挫けそうになっている。
 帰途につく足取りは重く、自らの家の扉を開くことすら億劫だ。
 夜の闇は深い。微かな燐光を放って、私室へと向かう。毛足の長い絨毯は意識せずとも足音を殺してくれるため、物音で誰かを起こす気遣いも必要ない。
 起きてくるのは気配に敏感な侍女だけだ。
「お帰りなさいませ」
「別に寝てても構わないのに」
「仕事ですので」
 雇い主が構わないといっているのに、しっかりと侍女服を着て対応に現れるのは仕事の範疇かどうか怪しいものだ。疑問には思うが相手が仕事だといっているので強要はせず、飲み物と軽食を部屋まで運んでくれるように頼む。
 頼んだものが運ばれてくる前に仕事の準備をする。私室の机の上を片付け、地図を広げられる準備をする。地図を広げ、国境付近に現在展開されている騎士団を模した駒を配置、さらに国内の騎士団の勢力も合わせて駒で表現する。
 予備兵力まで含めて国内に駒を配置し終わる頃に控えめに扉が叩かれた。常ならばはっきりと扉は叩かれるが、夜なので気を遣ったのだろう。大して気にも留めずに入室を促す。
 地図上へと向ける視界の端に盆に載せられた茶器とパンが目に入る。差し出す手は年齢を感じさせるもので、続く腕は寝巻きに包まれており、侍女服ではない。疑問が頭に浮かんで、視線を上げれば妻の姿があった。
「随分と仕事熱心ですね」
「……手を抜いて、君たちを危険に晒すわけにはいかないからね」
 言葉よりも先に零れそうになった嘆息を押し留めるのは、相当の努力が必要だった。
 予め含んであったのか、侍女に知らせてもらったのだろう。深夜にわざわざ起こしてもらうほど言いたい何かがあると思うと、気が重たくなる。
「大変な時期なのは分かります。けど、家に帰ってまで、寝る時間を削ってまで、それも一人で抱え込まなければならないほどなの?」
「楽観できる状況ではないことは確かだよ」
 詳細に語ることはしないが、殊更隠すことも無い。バーキアと戦場を共にしたことは無いが、彼女もまた人外の獣たちが蹂躙する時代を生きた人間だ。この国の危機を知らされても受け止めることが出来る。
 もっとも、結婚して公の場から離れて久しい。細かな機微までが分かると期待するのは意味が無いことだ。理解してもらいたければ、全てを説明するしかない。そのことを考えただけでバーキアの身体は疲労を覚える。言うとおりに睡眠時間まで削っている状況で、余計な負担まで抱えたくない。
 結婚自体に不満は無い。それでも今は相手を余計なものだと考えてしまっている。
「あなた一人で抱え込まなくても城には優秀な方が大勢いるでしょう。少なくとも騎士団の運用などはあなたの仕事ではないはずです」
 確かにその通りだ。というよりは筆頭魔導師にそんな権限自体がない。自らの指揮下にある騎士たちはいるが、騎士団全体を総括できる立場ではない。王女と元帥だけがその権限を持つ。
 だからといって考えないわけにはいかない。自らの考えを提言し、意見を汲んでもらうことは可能だ。何よりも誰かに任せてしまった先の結末など到底受け入れることは出来ない。
 そう説明して納得してもらえるかどうかは、また別の問題だ。
「悪いけれど、今は君と口論するつもりはない。睡眠時間を削って、一人で抱え込んで、そうするだけの意味があると僕は思っているんだ」
「私はあなたのためを思って……」
「ああ、きっとそうなんだろう。わざわざ夜遅くに起きてきてまで心配してくれているのは分かるよ。君はいい奥さんで、僕は出来の悪い夫だ」
 だけど、とそう続ける。
 それがどういう意味を持つ言葉なのかも十分に理解しながら、それでも止めることはない。
 つまるところ、どうしようもない本心なのだから。
「僕は君の夫である前に、赤橙の勇者なんだよ」
 そしてその名はアズールたちがいたからこそ得た名であり、そうであるからこそ同時に果たすべき誓いが共にある。
 言葉で説明しても理解は出来ないだろう。あの時を同じ想いを抱いて駆けたものにしか分かるはずもないものだ。
 だから理解は求めない。説明もしない。
 ただ自分はどうしようもなくこういうものだと告げる。
「本当にすまないと思う」
「けど、それだけなんでしょう? 思うだけ、気を遣う振りだけをして、あなたはいつも現在よりも過去を大事にしている。彼の時だって……!」
 その言葉に対して、バーキアは何も言わなかった。
 彼女もまた、続く言葉を持たなかった。
 夜の深い時間に、耳に痛い沈黙が横たわる。
 彼女は真にバーキアのことを気遣っている。だからこそ人外となってしまったアズールとの関係を恐れた。人外と関わりがあるとみなされれば、バーキアだけではなく、バーキアの系譜全てが疑われることになる。そんなことはバーキア自身も望んでいない。
 それでもアズールはバーキアの友であり仲間だったのだ。双色の勇者とまで呼ばれ、並び立つ存在だった。現在の自分があるのは、アズールを始めとしたものたちがいてくれたためだ。それを保身のために切り捨てることは到底許容できなかった。
 しかし、バーキアはアズールに力を向けた。
 何もかもを全て秤の上に載せ、そして自らの意思で決断したのだ。
 その上で、まだなおバーキアの心には過去の想いが根強くある。当然だ。現在は過去から続くものでしかない。過去の全てがあったからこそ、現在の全てがあるのだ。
 失ったものばかりを数えるようになってからは、なおさらバーキアにとって大事なものになった。
 勿論、全てがバーキアの感傷からくるものだ。彼女にとって実感の沸くものではない。
 ただ自らの言葉が触れてはならないものに触れたことだけ理解していた。
 あからさまな後悔が表情に浮かぶ。腰が引け、許されるのならば直ぐにでも足は逃走を開始するだろう。バーキアから見ても気の毒なほどだ。
 そうであっても、言葉を無かったことには出来ない。
 バーキアは、過去の誓いを果たすため、そして大切なものたちを守るため、国を守る。だからこそ、無理を通し、我を通し、全力を尽くす。
 彼女は、バーキアや家族、近しい者たちの平和を願っている。だからこそ、過去ではなく、現在から続く未来を望む。
 今、ここで、曖昧なまま言葉を濁すことは出来る。ただし、そうなれば最早お互いに正面から向き合うことは困難だ。今このときに出来ないことが後になってできる理由などない。共に若さを失い、老い衰えるのを待つ身だ。成長を望むのは、余りに楽観が過ぎる。
 だからか、彼女は力の限りを尽くして、言葉を吐いた。
「ごめんなさい。あなたが過去の思い出をどれだけ大事にしているか知っているのに……それを卑下するような言葉を言ってしまって……」
 だけど、と彼女は言葉を続ける。
 本当に伝えたいことを言葉に託して。
「私の本心です。過去に縛られて、自らの命すら削ろうとするあなたを見るのは辛いの。 もう獣はいない。あなたは人間なのよ。老いて衰えて、それでもなお勇者としてあり続けなければならないなんて……!」
 彼女の言うとおりだ。勇者などやめて後進に道を譲ってしまえばいいのだろう。
 しかし、それで何かが起きたときにはきっと後悔する。それを自ら理解していてなお、降りるというのは我慢が出来ない。過去も現在も関係なく、それがバーキアの性分なのだ。
 本当に自らの限界を感じるまで勇者であり続けるのだろう。
 ただ自らの満足のためだけに。
「すまないね。けど、やっぱりやめられそうにないよ」
「……知っています。結婚する前から、あなたはそうだったもの」
 そうだったかと自問するが、きっとそうだったのだろう。友や仲間を除けば、一番長くバーキアを見ている彼女の言葉だ。
「今ここでこれ以上言っても意味がないでしょうから、私はもう寝ます。仕事を奪うようなことはしませんが、あなたも程々にしてください」
「ああ、わかってるよ」
「それは分かってないって顔ですよ」
 寂しそうに微笑み、彼女は去った。
 後に残されたのは、彼女の本心と、老いた男だけだ。
 椅子に腰を下ろし、吐き出された嘆息は重く、床に落ちる。
 きっともう今夜は何も手がつかないだろう。
 何もかも自分で決めたことだ。去り行く友や仲間を見送ったのも、約束を果たして帰還した親友と離別したのも、何もかもが自らの意思による決断だ。
 何もかも自らで決め、誰の理解も求めなかった。だからこそ、ここまで進んでくることが出来た。
 しかし、妻にすら理解されないこの道を歩むことが年々重責となってきている。
 何故ならば、自らで決めたことだからだ。
 勝手に、自分だけで、決めていることだからだ。
 今はまだいい。休めば歩けるようになるだろう。しかし、徐々に休む時間が長くなり、やがて完全に足が止まるときが来る。そのときに果たして自分は満足に死ねるのかどうか。
 この思考はまずいと分かっていながらも、止められない。
 手元にあるのは夜食だけで、思考を散らしてくれる酒はない。呼べば運ばれてくるだろうが、自らの惨状を知らせることになる。
 この状態では眠ることも出来ない。
 出来るのはただ、深い夜の闇の中に溶け込むことだけだ。
 呼吸を殺し、目を閉じて、思考を止める。
 五感が鈍くなり、頭が思考を放棄すれば、残るのは心だけだ。
 心が思うのは、過去の思いだけだ。
 いつもあの雨の夜を思い出す。
 アズールと離別したあの夜。
 あのとき、何もかも捨ててアズールと二人でいることを選べばよかったのか。しがらみも誓いも何もかも捨て去り、二人を誰も知らない土地にでも逃げればよかったのか。
 馬鹿げた考えだ。そんなことが実際に出来るのは、芝居の中だけだ。
 そうできなかったからこそ、バーキアはここにいる。
 しかし、そう出来ていれば、少なくともこうはなっていなかった。
 今から追えとでもいうのか。自らの決断で切り捨てた友を前にして、再び君と共にいたいんだと恥を捨てて嘆願しろというのか。
 それでもきっとアズールは受け入れてくれるだろう。責め立てることもせず、問いかけることもせず、静かに行こうとだけ言うのだろう。
 バーキアが逆の立場だろうとそうする。仮にアズールが今のバーキアの立場に立たされ、逃げ出したとしたのならば、本当に自らの限界まで力を尽くし、それでも届かなかったのだろう。ならばそこにいなかった自分には何もいう資格は無い。
 ああ、きっとそうだ。
 そして、自分はまだ限界まで力を尽くしてはいない。
 本当に限界まで力を尽くしたのならば、逃げる力など残ってはいない。力尽き、そこで果てるだけだ。
 何もかもが下らない夢想だ。
 そう。全てはもう叶うことのない夢だ。
 自分はここにしかいられない。力を尽くし、果てるまで、この場所に縛られ続ける。
 過去と誓いと約束と選択と決断に。
 全てが自分のものであるのに、自らを苦しめる全てのもの。
 それこそが自分の全てであり、それだけが自分の全てだ。
 もう自分ではどうにもならない自分を自覚してしまえば、心はせめてもの慰みに更なる過去を蘇らせる。獣たちとの戦いがほとんどであり、平和とはかけ離れた時間だった。それなのに何故か心は過去を求め続ける。
 目を閉じ、夜の闇に浸る限りは、いつまでも心地よい過去の中にいられた。
 出口は見えず、意識は深く底の見通せない泥濘へと沈んでいく。
 このときばかりは、もう何も抗う気持ちは浮かんでこなかった。

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