一瞬の驚愕は即座に過去のものとなる。それでも続く驚愕から覚めやらぬものもいれば、未だに現実を把握できていないものも室内にはいる。確かに迫りくる危機に対して話し合う場ではあったが、一つとして解決策の出なかった場だ。
何もかもが仕方ない。
その感想すら置き去りにして、バーキアだけが明確な意思の動きを作る。
椅子を跳ね飛ばし、机を蹴り飛ばし、王女の前であることも自らが末席であることも全て理解した上で、一直線に飛ぶ。
一足で部屋の窓の一つまでたどり着き、窓枠を右手で掴み、身体を支えて天を見る。
視線の先には、過去があった。
漆黒の毛並み。暗赤色の瞳。見通すことの出来ない闇が広がる口腔の中で、燦然と輝く白銀の牙。
かつて打倒したはずの獣の姿がそこにあった。
何故と問う疑問は遅い。目の前の現実を否定するのは愚か。
他の誰かに任せるならば自らがこの場にいる意味は無い。
輝き、紫電を放ち、過負荷に今にも砕けそうになる王都の結界と、噛み砕かんと牙を突き立てる獣の前には全てが遠い。
ただ無意識に限りなく近く、全てを意識しながら術式は意識領域の中で限界にまで展開され、呪紋の詠唱すら放棄し、自らの絶対の意詞の一つで世界の変革を実現させる。
「炎よ、赤と咲け!」
戦いに関する全てだけがバーキアの認識に追従する。
右手に構えたセレスエアレイドの先、意志に応じるように紅蓮の花が咲く。眩いばかりの輝きは王都全域を力の色に照らし、轟音と共に咲き誇る爆発の花が獣を横殴りにする。
バーキアの一撃に牙は結界より放れ、獣の身体が宙に浮く。しかし、獣自身には一つとして傷はなく、毛皮すら炎に焼かれた様子はない。
無論。そんなことはバーキアにとって既知に過ぎない。
いくら勇者と呼ばれるものであろうと、所詮は人間だ。意識領域の中だけで瞬時に展開した術式だけで、人外に届くはずがない。それで届かなかったからこそ、人は人外の前に敗北を繰り返したのだ。勝利を可能としても、なお敗北が前提とあるのだ。
だが、通じずとも構わない。呪紋の詠唱を放棄し、意識領域内に術式を展開しただけの一撃で獣の体勢を崩すことが出来た。それこそが目的だ。
獣が王都の結界の上にいては、その自重ですら結界を砕かれかねない。
だから呪紋の詠唱を放棄し、意識領域内に術式を展開させ、意詞を連続して放つ。全うな手順ではない。自らの力によって無理やり魔法を顕現させているだけに過ぎない。当然のように老いたバーキアの身に軋み砕けるような負荷が襲い掛かる。それを全て経験に裏打ちされた意思が押さえ込む。痛みも軋みも過去には当然だった。
そんなものに屈していては今日という日はなかったのだ。
連なる赤の花道の先に獣は飛んでいく。八つ目の花が咲いて、ついに獣が王都上空から退く。
八つの花を咲かせて得たものは、それだけだ。獣は身を捻り、大地を打つ音と共に危なげなく着地する。上空より退いた獣を追うようにバーキアもまた王都の上空を駆け、防壁の上へと立つ。そのときにはもう獣は、着地の衝撃に四肢を撓め、そのままの勢いで再度突撃する構えを見せていた。
一瞬ではないが、数秒にも満たない僅かな時間。それが獣を前にしてバーキアが作り上げた幾許もない猶予だ。
それこそが戦いにおいては何よりも価値を持つ。
獣が攻撃に移るまでの一動作の間に、バーキアの意識領域の中には新たな術式が紡がれ、口は呪紋を虚空に刻む。
獣が跳躍を果たす。
それよりも早く、バーキアの意詞が放たれる。
「穿孔の楔、閉止の環、遮断の檻! 不導の縛を――!」
停止結界が編まれ、獣の動きを次々と奪っていく。いくら人外の獣だろうと、単体に絞ればバーキアならば数秒は動きを止めることが出来る。その間に続く仲間が必殺を紡ぐ。
かつての過去において、獣に対して敗北を積み重ね続けた果てに得た勝利へと至る道筋だ。そうであるからこそ、経験に裏打ちされた流れへと半ば無意識にバーキアは乗る。自らの半生近くを獣との戦いに費やしたのだ。身体に染み付いた戦い方を咄嗟に変えることなど出来るはずがない。
だからこそバーキアの背筋を戦慄が走る。
バーキアの速度と共に戦場を駆け、思考を共有し、並び立つだけの力を持つものがいたからこそ、かつてという過去で勝利できたのだ。
今という現在には、それを可能とするものは誰一人としていない。
獣にすら先んじることが出来るバーキアは早すぎるのだ。騎士達の誰もが追いつかず、唯一バーキアに追いつこうとしているのは獣だけだ。
停止結界の限界が迫る。それは同時に獣の解放の瞬間だ。
積み重ねた優位性が崩壊する。赤橙の勇者であろうと、真正面から人外とぶつかって勝てるだけの力はない。誰よりもバーキアが知っている。老いて、全盛から遠ざかった自らの力だけでは人外は余りにも遠い相手だ。
獣を前にして瞬間的な判断であったからこそ、そうせざるをえなかった。
それこそが相手の思惑に他ならない。過去に打倒したはずの獣が偶然にもこの場に現れるはずがない。獣を前にしたとき、赤橙の勇者の行動は限りなく制限されることを読んでいたのだ。
迂闊と評するしかない判断だったが、しかしあの瞬間に他の方法などなかった。騎士達の行動を待っていたのでは遅い。獣を相手に一人で出来ることなど限られている。バーキアの咄嗟の判断と行動がなければ獣は結界を喰い破り、それこそ王都は壊滅していた。
しかし、それもこのままでは徒に時を延ばしただけに過ぎない。
このままでは結果は何も変わらない。たった一個の獣に蹂躙されて、この国は滅ぶ。
友を切り捨ててまで守ろうとしたものを守れず、過去に交わした誓いは破られ、何もかもが失われる。
そんなことのためにバーキアは今まで生きてきたのでは断じてない。
かつての友も仲間も全員がバーキアよりも先に戦場を離れた。ただ一人バーキアが残されたが、それでもなお誓いは胸にある。老い、衰え、残され、ただ漫然と時を過ごしたわけではない。
不在の現在にてなお、勝利するためにいるのだ。
「我が意と共に舞え、――蝶よ!」
意詞に応じるように赤橙の色が王都に舞う。同時に王都を覆っていた対人外結界が喪失する。人外の獣の牙を真っ向から受け止めるだけの力を持つ結界の全てが赤橙の色と転じたのだ。
王都に張り巡らされた魔法陣によって顕現していた力の全てが蝶を通じて、バーキアへと流れ込む。それは人一人の身に過ぎたものであり、脳髄を焼く炎に他ならない。だが、炎が持つ熱は力の証だ。脳髄から爪先まで余さず荒れ狂う力の熱を逃さず、受け入れ、自らのものとする。
自らの内に留めた力が沸騰させる視界の中、停止結界は失われ、今度こそ獣は跳躍を果たす。大地を蹴り飛ばす衝撃の先に、大気を割り砕く轟音が続く。狙いは一直線。開いた顎は真っ直ぐにバーキアへと迫る。
だからこそ迎え撃つのは容易だった。
「――過去と散れ、獣よ!」
荒れ狂う力の全てを意詞と共に放ち、魔法として顕現する。叩き込まれた力は純粋な暴力として世界に存在し、空間ごと獣を破砕し、爆砕の花を咲かせる。かつて獣の王をこそ打倒するにはいたらなかったが、それでも一矢を報いた一撃だ。誤らず必殺を果たす。
赤橙の蝶が消え去った跡には獣の存在した痕跡すらこの世界にはなかった。代わりに、一瞬の静寂を挟んで、人々の歓声が聞こえる。悲鳴すら上げる間もなかった短い時間の戦いだったが、その果てに得た勝利に獣を知らなかった人々でさえ勇者の偉業を称える。
そして、それだけの力の行使には相応の代償が求められる。視界は赤に染まり、意識には痛みが割れ響き、指先には鈍い痺れが残り、足には力が入らない。杖で身を支えなければ、立つこともままならない状況だ。人々の歓声でさえ、今は自らを割り砕こうとする衝撃に感じる。
それでも、と思う。かつて獣の王を相手にしたときは、こんなものではすまなかった。杖で実を支えることすら出来ずに、仲間に支えられ、意識すら今ほどはっきりとはしていなかった。老い衰えた身にも関わらずに反動が少ない。それを自らの成長だとは到底思えなかった。
あるいは、かつてほど必死ではなかったからかもしれない。
友も仲間もおらず、ただ独り残され、誓いだけが胸に刻まれている。半ば強迫観念のように戦っているだけなのかもしれない。ただ誓いを守ることだけを考え、何一つ大事に思っていないのかもしれない。
考えても答えは出ない。どちらにせよ考えるだけの余力も今は残っていない。
守ると決めた。
ならば守り通してから考えればいい。
最後の代償が支払いを求めているのだ。
人々の歓声が悲鳴に変わる。獣の襲撃には悲鳴すら上がらなかったが、今は違う。獣ほど早くなく、人が見知ったものが原因だからだ。
それは等しくバーキアの元にも訪れる。
かつて人々を守るために獣を打倒した勇者の前に新たな敵が現れる。その事実は余りにも皮肉であり、同時に奇妙な納得もあった。
「これが最後の機会です」
人の敵として、人がそこにいる。