かつての誓いと

交わした言葉が失われ
込めた意味が忘れられ
それでもいつか果たされる

 バーキアを取り囲むように遠近含めて三十七人が姿を現す。接近に気づかなかったわけではないが、ただ一人で人外を相手にしなければならない以上は無視するより他なかった。
 そうであるからこそ人外は使われた。人が恐れる人外を捨て駒として、この機会を得るだけのために。
 赤橙の勇者であるバーキア・ホーキンスを人が超えるために。
 ただそれだけのためにこれほどまでに異質な戦場は生み出されている。
 バーキアの本心として、人が過去の勇者を越えてくれるのならば歓迎すべきことでしかない。人が自らの意思で先に進むことを望めるのならば、何も問題はない。
 だからこそ心は目の前の相手に反感を覚える。
「いつまでもあなたが現役でいては人が次へと進むことが出来ない」
 姿も声も違うが、その思想を間違うはずもない。
 一度は精神を焼いたはずだが変わらぬ思想をバーキアの前で披露する。
 いつかの誰かが目の前で言葉を繰る。
「人を次に進めるためだけに戦乱を起こすことを許容しろと?」
「別段許容しなくとも構いません。既に事は起きている」
「……僕が黙って見ているとでも?」
 どのように糸が引かれているかはわかないが、事実戦乱の火種は蒔かれてしまった。センチアレス王国と周辺三国は緊張状態を経て、現在王都へと侵略を受けている真っ最中だ。
 ここで仮にバーキアが倒れるようなことがあれば最早事態は収集が付かなくなる。国民は感情の捌け口として他国を恨み、国はどうしても対応を迫られる。泥沼と分かっていても、時として舵を失ってしまえば進むしかなくなる。
 その程度に赤橙の勇者は民に慕われている自惚れはある。
 そしてその先にあるのは本当の戦乱だ。
 人は人を殺すために自らを磨き、なるほど確かに強さを得るだろう。人をより効率的に殺し、屠り、散らす強さだ。自らの大切なものを守るためには否が応でも身に着けなければならない世界がくる。
 果たして人は次に進むだろう。人が人を殺すことにより、さらなる強さの先へと。
「だからこそこれが最後の機会です。自らの手で戦乱の幕を開きませんか?」
 そんな世界を始めようと言葉は誘う。
 それを始めるだけの力と資格があるとバーキアを呼ぶ。
 だからその言葉に何の意味もなかった。
 赤橙の勇者のことを何一つ理解していない言葉でしかない。
 そんな世界を作るために力を尽くしてきたわけではない。
 誓いは既に交わされている。
 回答は既に済まされている。
 そうであるからこそ相手は言葉どおりに最後の機会を失った。
 襲撃者たちの背後に再起動した結界が輝く。
「僕の回答など予想して然るべきだ。愚にもつかない言葉を並べ立てるより、呪紋を紡ぎ、意詞を放つべきだ。それとも悠長に言葉を交わしているだけの時間があると、誘いに乗る可能性があると、本気でそう思っているのかい?」
 これ以上の問答の必要はない。騎士たちにより結界は再び展開され、バーキアもまた僅かな間とはいえ身体は休息を得た。何よりも、痺れも疲労も残っているが、下らない言葉を囀らせているだけの心の余裕は無い。
「君たちが前にしているのは君たちが生きている現在のかつてを担った紛れもない一人、双色の一、赤橙の勇者だ」
 既に宣戦はなされている。
「人外の獣ですら、殺しきることは叶わなかった相手を前にして、その体たらく。――必死さが足りないな」
 友と仲間が守り通した世界を足蹴にしようとしているのだ。
 許してはならない。看過してはならない。
 その命ですら購いきれない代償を以って刻まねばならない。
「蝶よ」
 呼びかけると同時にバーキアの周囲を再び蝶が舞う。
 その段階に至って、バーキア以外の誰もが自らが立つ場所を再認識した。
 交渉は最初から没交渉。状況は既に開始されており、人外を捨て駒にしてまで得た利点を無にし、対応の時間を与えてしまった愚を嘆くことすら襲撃者たちには許されない。
 バーキアの意思が、意詞を以って顕現する。
「――我が敵を焼け」
 意思と共に舞う蝶は、触れれば紅蓮の華となり相手を焼く。周囲に紅蓮の色と熱が咲き誇り、人の悲鳴と絶叫が響く。
 相手の思惑通りに事を進めさせるつもりなどバーキアには断じてない。
 相手が人であろうと遠慮も容赦もない。誓いを果たすためだけに親友すら自らの手で犠牲にしたのだ。自らの意思で敵となったのであれば、慙愧の念すら抱くことはない。
 情報を得るために数人生かしておけばいい。
 冷静というよりも冷徹な判断に疑問を抱くこともない。バーキアは自らが万能無限からは程遠いことを嫌というほど知っている。それにもかかわらず自らの望みを達しようと思うのならば、何かを切り捨てるより他にない。
 五十年。単なる一兵卒としてではなく、国という組織の中で生きてきたのだ。何度打ちのめされ、幾度切り捨ててきたかも分からない。躊躇いを生む自らの感情すら擦り切れてしまっている。
 この戦場を決着させることに迷いはない。
 そして、それは相手も同様だった。バーキアの蝶による回答に対して、それ以上の問答は一つもなく、ただただバーキアを抹殺するためだけに動きが作られる。それでもバーキアの蝶により八人が一瞬にして消し炭となり、残るものも無傷とはいいがたい傷を負っている。バーキアの動きに反応できたとしても、なお埋められない差の現れだ。
 人外の獣を打倒するために結界を転じた蝶の残りはそう多くないが、しかしただの人間を打倒するだけならば十分すぎるだけの数がある。呪紋の詠唱も術式の展開も必要なく、ただ意思があるだけで力を顕現する蝶が今もバーキアの周囲を舞う。
 襲撃者はしかし動きを止めなかった。仲間の死にも力の差にも動じず、応報とでもいうように矢と魔法がバーキアへと殺到する。
 放たれる矢だけではなく、顕現する魔法もまた狙いを絞ることで貫通性を高めている。速度の勝る人外を相手にする場合とは異なり、魔法までもが範囲を限定しているのはバーキアを相手にするためだからだ。
 一瞬の遅滞なく、即応できるとはそれだけの経験を積んできたことに他ならない。
 人外の脅威から人を守るためではなく、ただ人を抹殺するためだけの経験を。
 彼らの放つ攻撃は全て蝶の向こうにいるバーキアを討つためだけのものだ。その全てが蝶の群れへと突き刺さり、力と力の衝突である光を散らす。
 結果はそれだけだった。音すら響かず、赤橙の燐光だけを撒き散らして、力の風さえバーキアには届きはしなかった。
 羽ばたきの残照だけが視界に映り、放たれた力の結果としては余りにも不釣合いな光景がある。あたかもそれは放たれた攻撃の全てを蝶が連れて行ったかのように見えた。
 見るものが見れば、心を奪われる光景なのだろう。
 無論。その場にいる誰一人として動きを止めなかった。
 攻撃は蝶の群れを突破できなかったが、突破できなかっただけだ。蝶は確かに数を減じており、蝶の隙間にバーキアへと続く道を見るものがいた。羽ばたく蝶の群れの中では次の瞬間には失われている道だ。その一瞬を捉えるために、身体能力を限界まで強化し、呪紋の詠唱を破棄し、意識領域の中だけで展開した術式を無理やり顕現させ、刃と共に襲撃者たちが迫る。
「拒め」
 その全てがバーキアにとって遅かった。
 赤橙の勇者と戦場を共にしたのは、紫紺の勇者を始めとして歴戦の戦士達だ。人外を相手とする戦場にあって、無条件で信用できるものたちだった。
 そんな彼らと比べることすら愚かだが、比べざるをえなかった。
 呪紋の詠唱も、術式の展開も、戦闘動作でさえ、何もかもが過去に劣る。
 こんなものでよく勇者を超えると吼えられるものだ。
 内心でそう思わずにはいられない。老いに加え、人外の獣との戦闘による力の行使で痺れも疲れも残っているが、それでもなおバーキアは襲撃者の先を行く。
 勇者の称号とは自らの力だけで得たものではなくとも、勇者の称号を得たものはこの国ではたった二人しかいないのだ。
 仲間と共に人の限りの中で戦い続け、至った高みだ。誇りも自負もある。
 舐められるのは我慢がならない。
「――嘆きの壁よ」
 蝶の隙間を縫うように突出したものたちの前に突如として輝く壁が屹立する。躊躇えば蝶に飲まれ、蝶の群れの中では壁を迂回することも出来ない。結果として、バーキアへと放つために紡いでいた一撃は壁を砕くために放つことになる。
 力が壁を砕き、そして抗うような爆発の花が咲く。
 壁へと込められた力が接触により解放され、突出したものたちを余さず爆発の奔流で飲み込む。
 それでも進攻が止まらぬものがいた。
 僅かな驚きがバーキアの動きを奪い、思わず直視し、あらゆる感覚がこの現実を見抜く。
 何もかもを攻撃へと力を注いでいた襲撃者に防御へと力を回す余裕は無かった。爆発の余波で焼け焦げた身体を見るに何か特別な装備を身に着けているわけではない。相手には一つとして防ぐことの出来る理由はなかった。
 しかし相手は刃の勢いと共にそこにいた。
 術式の展開も意詞を放つことも遅れたバーキアでは、相手の刃を先んじることは出来ない。
 三匹の蝶だけが先んじ、襲撃者を絶叫と共に焼いた。
 その瞬間に至って、バーキアは見た。
 相手と蝶の間に差し込まれた輝きは、展開された三重の防壁だった。
 一呼吸の間に理解が追いつく。
 何も難しいことはない。攻撃と防御を別の人間が行っているだけだ。一人の人間には限りがあり、その力を攻撃と防御へと割けばそれだけ発露する力は減じる。だからこそ一人の人間が一方へと全力を注ぎ、複数の人間によって攻撃と防御を成り立たせることで、より高度な戦闘を可能とする。
 言葉で表すだけならば難しいことは一つもない。しかしそれを成り立たせるのは人間だ。各々の呼吸と癖がずれとなり、齟齬を生む。一つの戦闘を全うさせるには相当の経験が必要なる。
 それにもかかわらず、一度目は対応できなかったバーキアの攻撃に対して、二度目では僅かとはいえ対応し始めている。僅か数合の戦闘で最適化が行われ、より練度を高めつつある。単なる寄せ集めに出来る芸当ではない。それこそ長い時を共にし、お互いの呼吸を理解していなければ不可能だ。
 だがバーキアの胸を打つ最大の驚きはそんなことではなかった。
 相手が行った戦術は基本中の基本なのだ。
 力で勝る相手へと勝利するために人間が編み出し、かつてより現在に至るまであらゆる人間が研鑽し続けてきた戦術であり、バーキアもまた携わった一人だ。理解できないはずがない。
 対人外戦闘における基本。
 人外を打倒するための戦術により、バーキアはその命を人によって狙われている。
 人のために戦い続けた赤橙の勇者が戦場に一人で立ち、それこそ強大な力を持つ人外であるかのように。
「――必死さが足りない?」
 戦場にあって響く全ての音がある中、唯一不協和音を奏でる言葉が響く。
「あくまで礼儀であり、敬意ですよ。ホーキンス師、私はあなたを尊敬している。出来ることなら、師自らの手で戦乱の幕を開けて欲しかった。今でも変わらずそう思っています」
 バーキアの感情を理解した上で逆撫でするように、誰かの口から誰かの言葉が放られる。
「無論。断られることは分かっていました。そうでなければあなたではない。それこそ双色の一、赤橙の勇者でありえない。私たちの生きている現在はなく、かつてとすら語られずに終わっていたことでしょう」
 だからこそ、と声は告げる。
「一つとして慢心はありませんよ。人外の獣ですらあなたを殺しきることは叶わなかった。現在もかつてもそれは変わらない。あなたは強い。双色の勇者の名を頂くに相応しいだけの強い意思がある。そんなあなたを前にして、慢心をするはずがない。まして、必死さが足りないなどそんなはずがあるわけがない」
 耳障りな言葉を吐くもの含めてバーキアの力は襲撃者を屠る。だが、言葉は次々と違う口から吐かれ、距離も方位もばらばらに、しかし全てバーキアへと向かって途切れることなく放たれる。
「人外に対する戦い方を見せ、今は人間に対する戦い方を見せている。その全てが私たちの経験となり、あなたを脅かす力となる。あなたたちが人外の獣との戦いを経て、ついには打倒するまで至ったように。今度は私たちがあなたとの戦いを経て、あなたを越えていく番だ」
 そんな順番など来てはならない。来させるつもりもない。
 思い、力を放つが、耳障りな言葉を止めることが出来ない。
「全力を出し尽くしてください。双色の一、赤橙の勇者よ。命を使い潰し、力の最後の一献まで吐き出し、かつて人外の獣を打破したときのように!」
 戦場の中、襲撃者の力は一つとしてバーキアに届かないが、不愉快な言葉だけが届く。
 ふざけるなと叫んでしまえれば、どれだけ楽か。だがそれは許されない。呪紋の詠唱を放棄し、術式の展開を中座し、ただ何の力も持たない言葉だけを吐くことさえ今のバーキアには出来ない。
 襲撃者たちはバーキアに劣るが、手を抜いて捌ける相手でもない。事実、彼らの攻撃は未だにバーキアへは届いていないが、戦いが進むにつれて確実に差を埋めつつある。それは薄皮一枚にも及ばない僅かなものだが、差が無限でないのならばいつかはたどり着く道理だ。
 それが可能であることをバーキアは知っている。
 他でもないバーキアたちが実践したのだ。
「あなたの全力を超えて、私たち人は次へと進む!」
 強大な人外を相手に弱小な人間が勝利した。
 人間は成長することが出来る。未完の可能性をその内に秘めている。
 それは決して完成することのない強さだ。
 完成された人外とは違い、永遠に成長することが出来る可能性がある。
 だからこそ人外を相手に勝利できた。
 だからこそバーキアを相手に勝利できる。
「あなたは私たちにとって人外に他ならない。絶対的な強さで君臨し、人の進歩を妨げる。あなたという存在がいるからこそ、人は先へ進むことを諦める」
 瞬間。得た感覚が何なのかバーキアには分からなかった。
 脳髄が沸騰し、心臓が凍りつく。
 そうとしか表現できない、相反した感覚がバーキアの内で溶けて混ざることなく駆け巡る。胃を満たし、肺腑を逆流し、身体のありとあらゆる箇所を経て、何もかもを攫っていく。
「あなたの必死を以って、――戦乱の幕を開ける!」
 そんな言葉などもうバーキアには届いていなかった。
 他でもないバーキアを人外と表した。
 真に人外となり、野に下ったアズールを知らずに。
 真に人間であるからこそ、共に行くことも出来なかったバーキアを。
 人間にとって人外であると。
 身体の中を余すとこなく巡り巡ったものが、ついには抑えることもできずに溢れる。それは口を門として世界へと放たれ、世界へと顕現した瞬間に表現できない感情は言葉となっていた。
「ふざけるなあああああああああああああああああああああああああ!」
 それこそバーキアが生涯で初めて吐いた正真の怒りだった。

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