幕前

必ず辿り着くために
そのために誰もが戦ってきた
だから今は行く

 荒涼とした赤茶けた色を晒す大地。それが恐らくは世界の全てなのだろう。どこまで行こうと緑の色は無く、世界の果てにあるのも山脈に切り取られた空の青さとの歪な境だけだ。
 全てが奪われ喰われた後であり跡だった。
 だがしかし、全てが終わってしまったはずの世界にはまだ生まれるものがある。
 それは赤黒い血であり、怨嗟の呪であり、絶命の絶叫だった。
 終わってしまったはずの世界は戦場としての舞台を広げていた。
 傷つき、その志を半ばにして倒れたものたちの屍が広がる。それは敵であり味方だったものだ。もう動かぬ彼らは既に過去のものであり、その過去の上を想いの途上の生者たちが駆けていく。まるで死者の無念を連れ、自らの行き着く先で果たすとでも言うように力強い疾駆で戦場を行く。
 武装した人と漆黒の色を纏う狼にも似た強大な体躯を持つ獣。過去の積み重ねは、その二つだけであり、延々と続く二つの過去の先に現在の最前線があった。
 風の吹かない荒野に風を轟かせるのは力の息吹であり、無音の天空に軋みの音を響かせるのは意思の激突だ。それは一つとして揺らぐことなく、決して消えることなく続いていく。
 戦場は今もまだ続いている。
 過去と同じように現在もまた人と獣の二つで造られている。その現在の最先端は三つの存在で作られていた。
 一つは、紫紺の髪と瞳を持つ、牙の形をした大剣を構える男。
 一つは、赤橙の髪と瞳を持つ、身の丈ほどもある杖を振るう男。
 一つは、闇色の体躯と世界よりも赤い瞳を持つ獣だ。
 その三つに続くように十人にも満たない武装した人が続く。
 最早、戦場の中で生を持つ獣はただの一頭。しかし、他のどの獣よりもその体躯は強大であり、力もまた比することすら愚かになるほど強大。咆哮と共に放たれる力がまた一人の人を現在から過去へと叩き落していく。
 誰もが終わりを感じていた。人か獣。そのどちらか全てが過去になるまでこの戦場は終わらない。そして、どちらにとっても過去はもう背後まで迫ってきていた。
 人も獣もこの現在にたどり着くためにどれだけ失ったかも分からない。現在に立つものたちでさえ必死に現在にしがみついている。少しでも油断してしまえば置き去りにされることが分かっていた。
 終わりは近い。誰もが知っていたが、それは余りにも遠い。
 だが、決して諦めなければ必ずたどり着くと確信している。
 だからこそ、戦場に高らかに響く言葉がある。
「顕現せよ我らが想い! 望む先へと至るための力となりて!」
 赤橙の男が放つ言葉には想いがあり、人々の想いがそれに続く。世界は想いに応え、魔法という力で以って望みを顕現しようとする。
「――――ッ」
 獣の反応は一瞬。四肢で大地を蹴り、力が顕現する前に脆弱な人の身にその牙を突き立てようとする。
 無論、その牙に捕らえられれば命は無い。それを知ってなお、赤橙の色を持つ男は逃げず臆さず、杖を構えて言葉を続ける。
 何故ならば、
「おおおおおお――ッ!」
 紫紺の色を持つ男がその牙の大剣を以って獣の牙を受け止める。
 力の激突によって、大気が軋みの悲鳴を上げるが、両者の激突は終わらない。獣がそのまま押し切ろうとするが、男はその勢いに真正面からぶつかる。力の差は男とぶつかったまま獣を前へと進めるが、しかしそれでは届かない。
 男が稼いだのは僅か数秒。余りにも儚いその時間。
 それこそがこの戦場では万金を積んでも買えないほどの価値を持つ。
 魔法が完成する。
 それを察知した獣は咄嗟に突進を止め、転進。魔法の効果範囲から逃れようとする。
「させるかぁっ!」
 だが、紫紺の男が放った鎖は空間を封鎖。獣の力を受け、鎖が千切れるが、その上からさらに幾重にも巻きつく。破壊と拘束。二つの力の速度は破壊が上回るが、それ以上に魔法が顕現する速度が上回る。
「――過去と散れ、獣の王よ!」
 意詞が響き、鎖によって閉じようとしていた空間に力が叩き込まれ、空間そのものが破壊され、爆砕の花が咲く。
 世界を震わせる余波が衝撃として風を起こし、血と肉と鎖が花と散り、
「――――!」
 咆哮と共に獣が力を放つ。世界を抉りとる力は一直線に世界の果てまでも伸び行き、その射線上にあったもの全てを尽く飲み込んだ。
「あれでもまだ……!」
 赤橙の男の胸に悔恨の念が積もる。渾身の一撃だった。あの一撃で決着をつけるつもりだった。全身全霊を賭けた一撃でさえ、殺すに至らなかった。現実はいつも想像の上を行く。逆に仲間の半数が食われ、自らも余力がもう無い状態だ。
 相手も決して無傷だったわけではない。闇色の体躯は血に塗れていない箇所は一つとしてなく、今も追撃をかけずに距離をとって対峙している。
 それでも相手は屈していない。瞳は畏怖を抱くほどに真っ直ぐに勝利だけを見つめている。対する自らはもう力なく、杖に縋ろうとも立っていることさえできない状態だ。圧倒的という言葉の意味が真に理解できる。
 共に全力で戦場を駆けてきた。だからこそ両者の差が明確なほどここに現れる。
 それでも、負けるわけにはいかないということだけは確かなことだ。
 部隊は既に壊滅状態であろうとも、自分にもう余力が無かろうとも、相手がどれほどに圧倒的であろうとも、それは変わらない。
 望むものがあり、守りたいものがあり、得たいものがあるのだ。
 ならば一つの道理に従い、ただひたすらに世界は単純になる。
 勝たなければならず、負ければ全てを失う。
 それを誰よりも理解しているから、
「撤退しろ、バーキア」
 紫紺の色を持つ男はそう言った。
「アズール!? 何を言っているんだ!?」
 しかし、バーキアと呼ばれた赤橙の男は理解していた。部隊はもう機能せず、バーキアにはもう戦う力が残されていない。この状態の中で戦うことが出来るのは、今もただ一人戦場に立っているアズールだけだ。
 戦場に立つものとしての冷静な判断がそう告げている。それに間違いはない。
 この場にいる誰もがそれを分かっている。
 アズールにならばこの場を任せることが出来るとも。
「けど……!」
 バーキアの言葉はそれ以上続けることが出来なかった。
 この機を逃せば次は無い。それを誰よりも分かっているのは、この作戦を立てたバーキアだ。事実、獣王の力を直接肌で感じて最早それは確信となっている。
 勝たなければならない。アズールしか戦えるものはいない。
 だが、それで納得できるはずが無い。
 彼はかけがえのない友なのだ。志を共にした仲間だ。
 理屈だけで割り切れるような存在ではない。
 理性で理解できても、感情が納得できない。
 そう思っても、もうどうすることも出来ない。
 ここは戦場であり、戦う力を失ってしまえば立つ資格すら失う。
「早く行けっ!」
「アズール――!」
 戦いの全てを任せてしまうのか。誰も彼を助けてくれることのない地に一人置き去りにするのか。時の流れの違う世界だ。次に会うときに生きて会えるという保障はどこにも無い。
 人の勝利という大義名分のために切り捨てる。
 それしか方法がないことを理解してしまう自分が何よりも憎い。
「戦いはここだけじゃあない……向こうにもまだ脅威は残っている」
 だから、とアズールは言う。
「あっちはお前に任せる。勇者のお前にな!」
 もう目の前で誰かが悲しむ姿を見たくなかったから。
 世界を悲しみの嘆きで満たしたくなかったから。
 単純な理由だ。
 まるで子供のようだと笑われたこともある。
 だがしかし、それこそが彼の真実だ。
「守るのが勇者の役目だろう。なら守ってくれよ、バーキア。俺たちの守りたいものをさ」
「……分かった」
 そう言わなければならなかった。牙の大剣を構えるアズールの背には決意がある。不退転の意思であり、守護の意思であり、勝利の意思だ。それはバーキアたちを守り、必ず勝つというアズールが背負う皆の想いでもある。
 だから、バーキアもまた決意を示す。
「君の守れないものを僕が守ろう。きっと……いや、必ずだ……!」
 アズールが安心できるように。後顧の憂いなど一つとしてないと教えるために。
 バーキアが悲しみなどを見せてはならない。声を震わせてはならない。涙を零してはならない。毅然とした態度で、腹から声を出し、涙は飲み込んだ。
 アズールは彼らの悲しみを防ぐために戦うのだから。
「ああ、任せたぜ。お前にならば任せられる」
 その身に力を巡らし、アズールは改めて獣と対峙する。撤退するときが最も隙が大きい。だからこそ獣はその瞬間を狙って牙を突き立て、アズールはそれを防ぐために牙を握る。
「だからよ、ここは俺に任せておけよ。お前が俺の守れないものを守るのならば、俺はお前を守る」
 部隊の生き残りと共に撤退しながらバーキアは確かにその言葉を聞いた。獣と激突しながらも一歩として譲らないアズールの確かな言葉を。
「それこそが勇者としての俺の役目だ」
 もう一人の勇者の言葉を。
 戦力としては既に数に入らないバーキアたちは速やかにこの場を離れ、アズールの戦いの邪魔にならないようにすべきだ。最早足手まといにしかならない。力が及ぶ範囲にいる限りアズールはバーキアたちを気にして戦闘に集中できない。
 それでも、バーキアは一度足を止め、振り返って叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
「必ず……! 必ず生きて戻ってきてくれ! 僕は守り続け、――そして君を待っているからっ!」
 声が聞こえたかどうかは分からない。余りにも身勝手な約束だとも分かっている。いや、余りにも一方的で約束にすらなっていない。
 そんなことは承知の上で約束をするのだ。
 未来というものに絶望しないために。
 ただそれだけを残し、もう二度と振り返らずバーキアは去っていった。
 声は聞こえたに違いなく、約束は必ず果たされると信じて。
「――ああ、必ずだ」
 だからアズールは戦う。新たな約束を胸に秘め、勝利の先へと至るために。
 過去の先にある現在からつながる未来を手にするために。
 自らの全存在を賭けて、アズールは挑む。
 残された力は少ない。流した血は体力と気力を共に失わせ、身に浴びた敵の血は呪いと不快さを与えてくる。剣を握る手は徐々に握力を失っていき、普段ならば重さを感じさせない剣がこの上なく重い。膝をつき、意識を手放してしまいたい誘惑が確かにある。
 それは相手も同じはずだ。先の一撃は獣にとっても起死回生の一撃だったに違いない。事実、反応できなければそれだけで終わっていた。しかし、現実は違う。こうして生き残り、戦場に立っている。
 どちらもが等しく限界が近い。それはこの上なく望みが近いということでもある。
 望めば得る。諦めれば失う。
 世界は単純。ただそれだけのことだ。
 例えそれがどれほどに困難なものであろうとも、不可能でないのならば可能だ。
 身を以ってそれを知っている。
「俺一人じゃあダメだった。バーキアや皆がいたからここまで来れた」
 一人では相対することさえも出来なかった。
 しかし、今はこうして対峙している。戦いが成り立ち、渡り合っている。
 皆の戦いの結果として力は殺がれ、バーキアたちを追うことも出来ずにアズールとの対峙を許してしまっている。
 そうだ、とアズールは思い呟く。
 両の足に力を込め、しっかりと立つ。目を見開き、相手を見据える。歯を食いしばり、剣を握り締め、切っ先を障害の全てへと向ける。
「さあ、――」
 ようやくここまで来たのだ。
 全てはこの先を得るために。
 だから、今だけは何もかも振り返りはしない。後でいくらでも過去は振り返ることが出来る。未来だけはこの瞬間にしかきっと掴むことはできない。
 ただ先だけを目指して戦えばいい。
 それだけが今は全てだ。
 そのためにもアズールは全てを得るための最初のたった一つを望む
「――決着をつけよう」

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