行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 気配は完全に殺す。平原を物音一つ立てずに走る。必要ならば伏せもする。
 自分という存在で戦いの邪魔をしたくなかった。
 アズールを動かすのは完全な好奇心だけだ。自身の関与しない戦いの内容が見たい。
 早くと焦りながらも、決して雑にはしない。
 だから現場へ到着しても、気づかれはしなかった。
 場所は平原と森の境目付近。戦いを繰り広げるのは一体の人外と一人の人間。
 人外は猿にも似た形を持つ、森などで比較的目にする種だ。ただし平均よりも一回りほどサイズは大きい。普段騎士団が討伐するとしたら幾つかの個体がまとまって現れるが、一体ということはそれだけ自信があるのか、間抜けなのか。そのどちらかだろう。
 人は人外を恐れるが、しかしそれだけではない。訓練された騎士団は人外を打倒することを可能としている。余ほどの大物でもない限りは、突出した個体は騎士団に討伐される。
 だが現状は違う。対峙しているのはただ一人の人間だ。漆黒の外套に身を包み、髪を纏め上げた女性。巧みに長柄の斧を扱い、猿と渡り合っている。その姿を見れば、戦士としては十分な技量を持っていることが分かる。
 ただしそれ以上の何かは感じない。それだけだ。
 人外を相手にするには未熟。戦いとは流れの中に身を置くものだとアズールは思う。そして、視界の中にいる女はその流れを作り出せていない。
 一対一で渡り合うのは決して賞賛に値することではない。人外は人よりもあらゆる面で強力であり、戦いを長引かせれば人に不利になるだけだ。人外を相手にしたのならば可能な限り速やかに勝負を決しなければ、勝利の可能性はそれだけ低くなる。
 そう思っていると、女は背後を奪われた。
 咄嗟の反応で女は背後に斧の一撃を叩き込むが、浅い。人外の形成する力場を突破できても、肉体を破壊するまでには至らない。毛皮を裂き、肉に食い込み、骨を砕くことは出来ずに刃を止められる。
 女は両腕で斧を握り、人外は片腕でその一撃を止める。ならば自由な片腕で女の命を刈り取るのは至極当然だ。
 そして人外の一撃が女に迫る。
 その瞬間に至って、ようやくアズールの意識は、危ない、とそう思った。
 一足で詰められる距離ではない。だから鎖を放つ。大気を割り砕きながら飛翔する鎖の先端には牙のような突起に結ばれている。かつて獣の王すら食い破り、楔として打ち込んだものだ。高が在野の人外に受け止められる道理は無い。
 人外が女を殺すよりも早く鎖は飛来する。しかし、人外の回避が不可能なほど瞬時に到達するわけでもない。距離があったために人外に回避の時間が与えられた。状況を理解した女が斧を操るが、そもそも地力が違う。邪魔することさえ出来ずに弾かれ、人外は宙を蹴る。
 全ては織り込み済みの行動だ。第一に女の無事が確保できればいい。
 それに、とアズールは鎖を操る。
 別に逃がすつもりも無い。鎖はアズールの意を受け、軌道を変える。牙を以って刺し貫くことが出来ずとも、巻きつき縛り付けることは可能だ。
 アズールにとって想定外となったのはこの瞬間からだ。
 鎖は確かに軌跡を変化させたが、それはアズールの予想よりも遥かに鋭く早かった。まるで獣が獲物の喉笛に喰らいつくかのように一瞬の出来事だった。
 鎖は巻きつかず、牙が突き立てられ、人外は風穴を開けられて死に至る。
 遠目にも女の驚きがアズールを見るのが分かったが、それ以上にアズールの驚きは大きい。
 今まで鎖を操ることを失敗することは無かった。いや、これは失敗というものではない。アズールの予想以上の成果を出したのだ。それこそアズールの意を超えて。
 それがどういう意味か。分からないほどに間抜けでもない。
 無意識にも近い戦闘に関する意識。そこに蓄積された経験も反応も、まして力もアズールのものだけではない。獣の王をも含めた全ての中から最適の解を導き出し、状況に適応させている。
 つまりアズールの意に沿わずとも、それが最適であれば実行される可能性を持つ。
 人とは違う価値観を持つ獣の価値観を以って、状況を打破する。
 先ほどの鎖も、本来は捕縛するための力しか持っていなかったはずだ。紫紺の勇者は確かに人間の先頭に立ち、人外と戦ったが、それでも一撃で風穴を開けるほどの力を持ってはいない。アズールの想いが顕現した剣であるネトレーならばともかく、勇者は人間だったのだ。
 だからこそ納得できる。納得などしたくないが、現実が告げている。
 自らの身体でありながら、最早自分の知る肉体ではない。ただ少しの力加減を間違えるだけで、容易く殺してしまう。今まで人の中で生活できていたのが奇跡のようにさえ思える。
 まさか自らの身体にすら恐怖する瞬間が来るとは。
 迂闊に人に近づくこともやめなければならない。もう人の生活にも関わることすらできないかもしれない。
 しかしいくらそう思っても、視界の中には先ほどの女がいる。相手がこちらに気づいている以上、無視することも出来ない。せめてこちらが助ける素振りなど見せなければ、恐らくあの女は死んでいた。そうすれば余計な面倒など無かった。
 その思考そのものが自らのものだと信じることは出来なかった。
 人の命が助かったことを喜ぶのではなく、ただ自らの都合だけによって人の命を勘定する。
 人は人の命をこうも簡単に数えられるものなのか。
 違うと否定してしまえば、アズールは自らの変質を肯定する。
 その通りだと肯定してしまえば、アズールの今までの戦いを否定する。
 二律背反の中、それでも違うと何かを否定せずにはいられない。
「えーと……助けられたからお礼を言いたいんだけど、大丈夫? っていうか、助けられたのよね?」
 気を失っていたわけでもないが、女の接近にも気づかないほどに混乱していたのだろう。
 目の前には女がいた。
 だが今ならばまだ間に合う。たいしたことはない。気にするな。それでは達者で。ここでつながりを断ち切ってしまえば、もう関係ない。少なくとも人に近寄ることに恐れる必要は無くなる。
 頭の中で思い描いた未来を実現するために、心配そうに覗き上げている女に視線を返す。
「――――」
 運命というものを信じることは無いが、何かを呪いたくなる瞬間というものはある。
 あるいはアズールの導いた必然である以上、自らを呪うしかなかった。
 彼女を追っていたのだ。
 瞳に希望の輝きを持つ彼女を。

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