行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

「私は女だし、同行するのは大体が男。そういう面倒が起こるのは、……まあ、分かりきってたことだわ。仕方がないことだって分かってる。私の簡易結界を突破したし、視線を切らなかったけど、故意じゃないってことも信じる。出会ったばかりのあなたの何を信じればいいか分からないけど、信じるわ」
 だから、とルキは言う。
「別に怒ってないわ」
 裸身を目撃して以来、やたらと距離が開き、必要以上の会話は無くなり、目線があっても即座に切られる。そんな状態であっても怒ってないと言うのならば、それはルキにとって自然な防衛反応なのだろう。
 それだけのことをしたのだから仕方が無い。アズールは自分自身を納得させるようにそう思うが、悲しいとも寂しいとも思える感情が無いわけでもない。
 それはまだ自身が獣と成り果てていない証左でもあるが、思考の傾きは獣との合一を一方的に進める。そして抵抗するからには、人と獣の境界で軋みが生まれ、どこかに歪が生まれる。道理に逆らえば無理が出るのは承知の上だ。
 視界が眩み、身体が制御を失い、膝から崩れそうになる。一瞬のことだとはいえ、時と場合によっては致命的なものになりかねない。
 ましてや旅の途中。商人たちが人外の存在に襲われているとあっては。
 襲撃は突然。途中の森を大きく迂回する行程の途中、それは唐突に現れた。超高空から降り注ぐ風切り音。それが聞こえたときには、既に商人の一人は上半身を失っていた。
 鷲とも鷹にも似ており、しかし違うと断言できる強大さを持ち合わせた人外の鳥獣。それはアズールも目にしたことの無い人外だった。そもそも当時の勇者として戦っていた相手のほとんどは人外の獣であり、その獣の存在が国内の人外をも餌としたために多くの人外は目にすることすらなかったのだ。獣の脅威が無くなり、それこそ羽を広げた人外がいてもおかしくは無い。
「ご、……護衛ッ! 仕事だ! 私達を守れ!」
「そんなことは分かってるわよ……!」
 しかし、ルキには空を睨むことしかできない。上空を旋回する鳥獣は、降下の際に音をも超える速度で商人の命を奪った。その速度を常時維持できるかどうかは分からないが、それに大きく劣るということも無いだろう。加えて、空と地上では距離が開きすぎている。地に足をつけた状態で攻撃を放ったとしても、悠々回避されるに違いない。逆にその隙こそが命を差し出す契機になるかもしれない。
 未だ死んでないということはルキ自身も現状を把握しているのだろう。そして商人たちを守るために必要なことが何かも。それがどれほど困難なことかも。
「一箇所に固まって! 決してはぐれないで!」
 ルキの声が辛うじて恐慌に陥る前に商人たちの理性をつなぎとめる。
 ただの人間が人外にとって脅威にならないとしても、わざわざ面倒なものを選ぶ道理も無い。弱者から狙うのは当然。あくまで餌を捕食しに来たのであり、狩に来たのではない。
 いくら一箇所に固まろうと、ルキ一人で全員を守れるわけではない。手の届く範囲には限界があり、主導権は人外にある。さらには音速超過の一撃に対して間違いなく反応し、それを防ぎ、出来るのならば人外に一撃を加えなければならない。
 無理難題の連続。その果てにだけ勝利と呼ぶべきものはある。
 ならばルキの意思は逃げない。睨み、瞬きすらせず、人外の鳥獣から意識を外さない。
 大気すらその熱に灼かれたかのように、商人たちには自らの命が狙われている恐怖とは全く違う何かを感じていた。
 一瞬がどこまでも引き伸ばされるような時間。それは来た。
 何となく目で追っていたアズールですら視界の端でしか捉えられないほどの初速。首を振って追えば、既に音は置き去りにされていた。一直線に獲物へと爪を立てんと迫る鳥獣。
 その前へとルキが立つ。
「守護たる盾よ!」
 放たれる意詞に従い、ルキの前に光り輝く盾が顕現する。三重に合わさった盾は確かに鳥獣の行く手を阻む。その速度、その力を以ってすれば突破は可能だろうが、衝突の瞬間には速度が落ちる。その一瞬をルキは狙う。
 アズールから見ても、その狙いは悪くないものだ。
 しかし、それだけだ。
 ルキの観点は鳥獣を捉えられるかどうかだけに絞られている。最早、ルキにとって鳥獣が盾を真っ直ぐ突破することは確定事項なのだ。
 対するは人外。人の理の外に位置する存在だ。
 それだけでは足りない。
 音が置き去りにされ、思考だけが加速する時間の中、鳥獣はその軌道を変化させる。
「な――!?」
 ルキの驚きさえも追いつけない。速度をそのままに羽ばたきすらせずに軌道を変えた鳥獣は、顕現した盾を回り込み、商人の一人を巨大な嘴で啄ばみ、空へと帰る。
 商人の恐慌が響いたのは、肉塊と変えられた仲間の商人の血を存分に浴びてからだった。
 護衛は当てにならない。その証左を目の前にし、商人たちは散り散りに逃げ出す。鳥獣の降下範囲から人の足で逃げ出すのが不可能だと理解していても、逃げ出さずにはいられない。
「駄目! 戻って! ばらばらになったら――」
 そう言い切る前にまた一人が食われた。残る商人は三人。咄嗟にルキは間にはいり、斧を構える。無論、そんなもので鳥獣の進路を妨げられるわけでも、興味を引けるわけでもない。先ほどと同じように高速の迂回により商人へと鳥獣は迫る。
 ルキが盾を顕現させなかったのは、魔法を用いるための意識領域に限りがあるからだ。
「閉じろ!」
 顕現したのは盾ではなく、防護結界。対象を展開する結界の中に置き、外部からの脅威から守るものだ。ただ、その対象は商人たちではなく、鳥獣。結界の中に鳥獣を閉じ込める。
 もっとも個人が作り出した結界など、人外にとっては大した障害でもない。咆哮一つ、羽ばたき一つで、結界は割れ砕ける。
 一瞬にも満たない僅かな時間。しかし、それは万金を積んでも買えない貴重な時間だ。
「我が刃に祝福を!」
 空へと帰る直前、踏み込んだルキの斧が届く。刃は羽ばたこうとした鳥獣の翼へと迫るが、人外の持つ力場に阻まれ、翼そのものを断つには至らない。何よりも踏み込みが浅かった。人外を閉じ込める結界に、刃に力場を合わせ、さらに肉体の強化。一つも気を抜けない状況で、よくこなしたとは思うが、それでも結果は千載一遇の好機を逃して終わった。
 その報いは直ぐに来る。
 鳥獣の怒声は天に昇り、空より羽ばたきによって降り注ぐ風は力を持つ。鋭さを持つ風は大地を裂き、人の息吹をも奪おうと殺到する。ルキが盾を展開しても、一つでは足りない。二つ、三つ、と重ねてようやく防ぐに至る。だがそうなればルキはそれ以上の魔法の行使は出来ず、商人を守らなければならない以上そこから動けない。
 もう人外に同じ手は通用しない。ルキに何か策があるとも思えない。自らに振り下ろされる刃を待つ罪人と何ら変わらない。足掻くことすら許されていない状況だ。
 たった一つの好機は既に失われてしまった。
 その結果として、どうなるかは誰の目にも明らかだった。
 鳥獣は自らの意を全うしようと迫る。
 死は音を超えてやってくる。
 ルキの声がこちらに届くよりも先に、死は彼女を殺すだろう。
 だから、ルキの視線が何を言いたいのかアズールには分からなかった。
 いくら必死に訴えかけられようと、言葉にしてくれなければ分かるものではない。アズールは親友の思いは、言葉にされるまで分からなかったのだ。出会ったばかりのルキの想いがわかるはずも無い。
 だから、それはきっとアズールの錯覚からの行動だ。
 力を持つ風が降り注ぐ中を駆け、地を蹴り飛ばし、宙を行く。
 急降下をかける鳥獣と真っ向から相対し、意思と意思をぶつけ合う。
 咆哮も怒声も全てが置き去りにされる瞬間の中、アズールは人の意思を抱き、右手には獣の力を漲らせ、自らの意思を完遂する。
 絶叫すら置き去りに決着はつく。
 鳥獣だったものは勢いのまま下り、アズールは勢いのまま昇る。
 ふと下を見下ろせば、ルキたちが安堵の息をついているのが見えた。
 その光景はアズールの心をもう動かさない。
 醒めた意識に自覚的なら、そうなってしまった自分にも自覚的だった。
 そうなった原因にも。

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