行くもの去るもの

かつて男がいた
国のため友のため戦った
男がいた

 余りにも何もかもが変わりすぎた。いや、何も変わっていなかったのかもしれない。
 ただ気付いていなかったのだ。
 それでも、一度に知るには多すぎる。
 未だに現実に自分が追いついていないような気さえする。
 世界の輪郭が曖昧なまま、アズールの意識はようやく現状を捉え始めていた。
 あれから何がどうなったのか、何をどうしたのか、どれほどの時間が経ったのか、記憶には一つとして残っていない。どうやって眠ったのかも覚えていなければ、どうやってここまで来たのかも覚えていない。
 気付けば足は前へと進んでいた。
 どこへ進んでいるのかはわからない。だが、背を向けた先には国があることだけはわかっている。バーキアが守り、続いていく国だ。
 アズールの居場所が失われた国だ。
 言葉が自分の中で形作られれば、意識はようやく思考の体を成し始める。
 昼の日差しを遮る木々の密度は、森のものだ。それも人の歩いた痕跡など見当たらない森だ。地図の上での位置は分からないが、それだけでどういう場所かは分かる。
 人外の領域。
 人が敢えて手を出さなければ、脅威とならない存在も稀には存在する。そもそも人外と一戦を構えただけで勝敗の如何に関わらず、人的被害は免れない。地図上、様々な道を人は切り開いてきたが、それでも必要以上に手を伸ばしてはいない。
 世界は人のものではない。手を伸ばせば、そこには先住の存在がいる。
 だから地図上には幾つも未踏の領域というものが存在する。あるいは国というものでさえ、人外の領域の隙間に存在しているだけの儚い存在に過ぎないのだ。
 しかし、その儚さに頼らなければ人は生きていないことも事実だ。
 そしてその国を存続するためにアズールは排された。
 たった一つの事実。それだけでアズールがこの地を踏むのに十分な理由となる。
 人の足跡の無い森。そこにはやはり人の足が踏み入ることは無いのだろう。現に今も人の足跡は一つとして森にはない。
 アズールは既に人の理の外側に位置する。
 それを証明するように、害意も敵意も殺意もアズールへは向けられない。幾つか力の息吹を森の中に感じるが、闘争の気配は微塵も感じない。
 無視されているのか、同種と認められているのか、それとも全く別の理由なのか、アズールには判別がつかないが、それでも確かに人であればありえない状況に間違いはない。
 人ではなくなった。今までは意識すらも失っていた。
 今、こうして自らの意識があることに安堵すべきなのだろうか。
 答えを出したくない自問に嘆息が零れる。しかし、意図せず思考を放棄できない以上は考えるしかない。
 あるのかどうかも知らない自らのこの先を。
 少なくともはっきりしているのは一つ。アズール・メーティスはもうこの国には存在できない。生存が国に知られれば、バーキアにも迷惑がかかる。
 ならば行かなければならない。
 力に身を任せるという考えが浮かばないわけではない。酷く魅力的なのは、それが獣の本性だからだろう。自らの本質に従順であることこそが自然であるのならば、正しく獣は自然なのだ。
 そうしないのは、結局のところそんな気分にはならないからだ。
 別にそんなことのために戦ってきたのではない。
 そうしたいのならば初めからそうしている。
 違うのならば、そうしなければならない。
 殺してくれる誰かを探さなければならない。
 それまでは死ぬこともできない。本来ならば、気を抜くことさえできないのだ。
 アズールが自ら絶望に飲まれたとき、獣はアズールの全てを奪う。
 身体も、力も、今まで守ってきた全てのものを。
 それだけは許すことはできない。
 そして自分では死ぬことさえできないのならば、殺してもらうしかない。
 果たしてそれだけの力を持つものがいるのか。
 そのためには情報が必要だ。情報を集めるのならば、それこそ王都が最適なのだろうが、仕方が無い。最善を尽くせないのならば、次善を尽くすだけだ。幸いにも時間はある。金もバーキアからもらったものがある。
 必要な情報は一つ。
 未だ戦いのある場所。それも平定に向かっている場所だ。
 アズールの知る限りにおいて、バーキアは最高の魔法使いだ。しかし恐らくはアズールを完全に殺すことはできない。アズールの力はかつての獣の王を超える。老いによって衰えたバーキアでは不可能に違いない。
 そしてバーキアは生来から最高の魔法使いであったわけではない。極限ともいえる戦いの中で磨かれていったのだ。幾度も死線を偶然と幸運によって潜り抜け、終には自らの力によって死線を超えるまでに至ったのだ。
 だから探す。単騎による絶大な強さを誇るものを。
 多人数で力を紡ぐことも可能だが、何か間違いが無いとも限らない。獣に支配権を握られたときに、一撃で相手の数を奪ってしまえば、それだけで終わってしまう。獣にはそれを可能とするだけの力がある。
 必要なのは、国力の強さではなく、個人としての強さ。
 戦いが無ければ衰える。そして、平定に向かっているのでなければ、それよりも劣っているということだ。
 探さなければならない。
 自分を殺してもらうために。
 完全に死ぬために。
 王都にいる間に聞いた情報の中に、幾つか候補は在る。だが、その可能性は余りにも僅かなものだと自分でも分かっていた。
 勇名なのならば名が届くはずなのだ。しかし、その名は聞かなかった。代わりに得たのは周辺諸国のきな臭い話だけだ。獣の王を打倒したことでしばらくは平和になり、しかしそれによって力関係に変化が生まれつつある。平和は確かにあるのだろうが、平和の次にあるものが平和ばかりではない時代だ。
 それも最早アズールには関係のない話だ。
 もう自分にはどうすることも出来ない状況となってしまった。
 それでも全てを諦めることができないのならば、探すしかない。
 自らの足で探し、自らの目で見極める。
 かつての自分の居場所に背を向けて、歩き続ける。

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