決意の在り処

在るのならば答えられる
無いのならば答えられない
その程度のものではない

 突如として自らを支える大地が消え失せる。
 尻から背筋を上る、自由落下の始まりを告げる悪寒。
 大地があった場所にはそこの見通せぬ闇が広がる。
 牙が居並ぶ顎が餌を待っている。
 落ちればどうなるかなど想像に難くない。永劫とも思える月日を経て人が人外を打倒する可能性を手に入れた現在にあっても、人は本質的には人外の餌でしかない。余りにも簡単に死はそこにある。
 死はありふれたものだ。
 ただ自らの死に触れる瞬間はただの一度しかない。
 本来ならば。
 アズールは既に自らの死に触れている。
 足場が突如として消え失せたことなど、勇者として戦った経験の中にも無い。全くの未知は驚愕を以ってアズールの意識に空白を作る。戦場の最中にあって、最早それは致死にいたる瞬間だ。
 勿論、アズールはそれを知っている。
 自らの死に至るまで戦い続けたアズールの経験は、たとえ意識に空白があろうとも、身体を動かす。全くの未知なる状況にあっても、危難に直面すれば等しく反応する。
 かつてアズール・メーティスは勇者と称えられた男なのだ。
 沈み行く身体を支えたのは、力によって形成された足場だ。慣れない行為の結果は、脆く儚い。触れれば散るものでしかないが、触れられるということは刹那の間でも支えられるということに他ならない。
 ならば、それで十分だった。
 蹴り飛ばしてアズールはさらに高く宙を舞う。
 刹那の時間を経て、危難を脱せば、高い視点から状況が見えた。
 大地の色をした口が形成されたために誰もが足場を失って、餌となろうとしている。傭兵も、生贄の娘も、ルキも。誰も反応できていない。一口で全員が飲まれる。
 誰にとっても戦いとは、相手の姿もしくは相手の気配を感じてから始まるものなのだろう。だから戦いの始まりに気づいたときには、既に終わろうとしている。
 目の前で人が死のうとしている。
 それがどうかしたのか。
 死はありふれている。死のうとしているのなら、ありふれた光景でしかない。
 その通りだ。
 他人の死について何も感じなかったから、助けられたはずの商人を見殺しにした。
 だが、ルキに請われれば動いた。人外を殺し、ルキと商人を助けた。
 ルキが特別であるわけが無い。出会ってどれだけの時間を過ごしたというのか。興味はあったとしても、アズールを占有するには余りに微小だ。
 助ける理由が無い。無いにもかかわらず、助けた。
「……だったらどうして」
 意識せずに考えが口から零れていた。
 かつても、同じ言葉を放ったことがある。
 まだ勇者と呼ばれる前の戦場で。人外の牙を前にして、死の至近にいた瞬間。
 男に助けられた。アズールは命を広い、男は瀕死の重傷を負った。
 人外を相手にすれば、当然の結果だ。
 戦場に立つ以上、自然な結果だ。
 それでも出会ったばかりの他人を助けるために、自らの命を賭すなどと。
 その後、何とか一命を取り留めた男にアズールは問い詰めた。人外の獣の牙を前にして、恐怖に震え、一瞬とはいえ生を諦めたアズールを救うために、人外の前に立った男のことを知りたかった。
 礼の言葉など、前置きに過ぎなかった。
「あんた、なに考えてるんだ。相手は人外だ。人なんて簡単に死ぬんだぞ!」
「知ってるさ。戦場に立つなら誰だって知ってるだろ。俺も、お前も」
「だったらどうして……!」
「どうして?」
「どうして動けた! どうして助けた! 俺は震えるだけの役立たずだった! そんな俺をどうして助けてくれたんだよ!」
 男とアズールの差が分からなかった。
 男に力はある。だが人外を前にすればアズールとの差異など無いに等しい。
 男には戦いの経験がある。だからこそ恐怖もまた知っているはずだ。
 なのに何故?
 戦う想いの在り処は。恐怖を目の前にして動ける意思の在り処は。
 自らの命を賭すことが出来る決意の在り処は。
「俺の理由を聞いて、それでお前は誰になるつもりだ?」
「そんなの……」
 答えられなかった。
 答えが自らの内に無かったわけではない。答えを自覚したからこそ、問いの無意味さに気づいた。
「俺の理由は俺だけのものだ。俺の理由を知ったとしても、お前の理由にはならねえよ」
 正しく、その通りだった。
 男の強さは男のものであり、アズールのものにはならない。
 強さを得るのであれば、自らが得なければならない。
 理由を他に委ねてしまえば、自分である意味までもが失われてしまう。
 けど、と思う。
 人外は強い。人は弱い。獣の爪牙にかかれば人は余りにも容易く死ぬ。戦わなければ惨めな餌として喰われて死ぬ。戦ったとしても敗れれば同じく死ぬ。戦場にはありとあらゆる死の可能性が溢れている。
 死の可能性を超えて、その先を見据えるための瞳を恐怖は曇らせる。
 死の手前の恐怖。それこそがアズールの全てを鈍らせるものだ。
 死を経験したことがないからこそ、死の何もかもを知らない。だが恐怖ならば嫌というほどに経験してきた。血流が冷え、身体が竦み、意思が怯え、悲鳴が零れそうになる。
 だから欲する。超越する術を。打倒する理を。踏破する意を。
 勝たなければ、先が無いのだから。
「……俺の理由なんてきっと他のやつらにしてみれば大したこと無いものさ。つまらないとさえ言われるかもしれない」
 先ほどとは違い、口調がゆるくなった男の言葉は、あるいはアズールを励まそうとしていたのかもしれない。それほどに思いつめた顔をしていたのか確かめる方法も無いアズールには分からなかった。
 知りたかったが問わなかった。
 代わりに別の言葉を聞いた。
「それでも俺にとっては命を賭けるに値するものなのさ」
 なあ、と呼びかけられる。
「お前にとってもそうなんじゃないのか? 理由なんてとっくにあるんじゃないのか?」
 何故ならば。
「お前も俺も戦場に立つんだ。他の誰でもない自らの意思で」
 全く、その通りだった。
 想いならば既にあった。意思ならば既にあった。
 決意は既になされていた。
 アズール・メーティスは自ら戦場に立ったのだ。
「だからきっとお前もいつか助けるだろうさ。死を見て、恐怖を知って、震えて、怯えて、それでも身体を動かして、どうにかしようと――そういうもんさ」
 そう語った男の名は、コンティニアス。
 勇者となる前のアズールとバーキアの前に立っていた男だ。
 そしてアズールは今も戦場に立っている。
 勇者でなくなり、人でなくなり、人外となった今も。
 そういうものなのだろう。
 回想を経て、確信を得れば、鎖は伸びていた。全員に巻き付き、引っ張り上げると同時に大地の顎が閉じる。
 ここは戦場であり理由を問う場ではない。
 戦場に立っているのならば、既に決意は成されているのだ。
 だから。
「俺が助けてやる」
 呆然とするルキに理解できているかどうかは分からないが、一方的に告げる。
「お前が自らを諦めない限り、この戦場では俺が助けてやる。想いがあり、力が足りないことを嘆き、それでも諦めに身を委ねないのならば、この俺が力を貸してやる」
 勇者でなくなったとしても。
 人でなくなったとしても。
 人外となった今でも。
 かつて戦場に立った決意は今でも変わらずに自らの胸の内にある。
「だから見せてみろ! お前が望む未来に至る現在を!」
 やっとそう言えた。
 かつての過去を経て、いつかの未来を希望する。
 ただそれだけのことなのに、ただそれだけのことさえも出来なかった。
 本当にダサい男だ。アズールは自らそう思う。
 しかし、そのダサい男でもまだ出来ることがあるのだから、世界は侮れない。
「本当は独力でアズールを見返したかったけど……現実は非情ね」
 自らの死の至近から何とか立ち直ったルキもまた告げる。
「だけど、私の意思はきっと期待を裏切らないわ」
 彼女もまた自らの意思によって戦場に立つ。そして傭兵達も。
 だからこそ人外もまたそうなのだろう。
 大地に開いた口が持ち上がり、引き上げられるように身体が姿を現す。
 大地によって形成された蛇。
 これで人も人外も含めた全ての役者が戦場に揃い立った。
「さあ、はじめるわよ。私の望む未来へと至るための現在を!」
 どうしたところで未来は現在から続くものでしかないのだから。
 過去を変えることは出来ず、未来に触れることは出来ない。
 人は現在の中でしか生きられない。
 だから挑む。
 戦場は続く。

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