決意の在り処

在るのならば答えられる
無いのならば答えられない
その程度のものではない

 戦いがあった。
 激しい戦いだった。大地は剥がれ、木々は砕かれ、大気は戦いの熱に今も燃えている。そしてその全てに血の赤が加わっている。赤の色こそが命の証だと誰かが言ったが、ならば赤の色はやはり命の結果なのだろう。
 人も獣も共に赤の色を持ち、戦場にて相対した。
 戦いの勝敗をどちらかの死で語るのならば、人の勝利だ。獣は絶命し、その残骸を過去として戦場だった場所に晒している。過去となった獣はもう動くことはない。過去は過去として世界に葬られる。命の果てはどうしたところで朽ちて果てるしかない。
 人はまだ生きている。生きて、獣の死を見て、現在の中にいる。
 相手の死を以って得た勝利。その味に酔いしれるものはその場にはいない。
 騎士団と志願兵の混成兵団。合わせて五十に至った数の全てはそこにいない。生き残りは僅か七人。それも全てが志願兵だ。正規の騎士の生き残りは一人もいない。その事実は、どれだけ騎士が勇敢であり、勝利を得るために恐怖を乗り越えて誰よりも前へと突き進んだかを示す。騎士たちがいなければ、勝敗の結果は逆だったに違いない。
 生き残った誰もが、それを知っている。志願兵はあくまで自らの意志によって戦場に立つものだ。正規の騎士と違い、戦場に立つための訓練を受けたわけでも、訓練を不要とするだけの才を持つものでもない。しかし志願兵がいなくとも騎士たちが勝てたわけではない。
 意志だけを持つ志願兵をも戦場に投入しなければならないほどに人は追い詰められているのだ。
 昼も夜もなく戦い続け、騎士であろうとなかろうと戦えるものは戦場に立ち、その果てに勝利があるかどうか分からない戦い。それでも人は戦い続けるしかなく、勝ち続けるしかない。
 騎士ではないが、志願兵たちもそれは知っていた。傷ついた身体を手当てし、辛うじて残った命をつなぎながら、無感動に誰もがそれを思い出していた。
 敗北すれば確実に死ぬ。だが人が勝利を得たとしても、自らが生きているとも限らない。騎士たちは戦いの最中に意志の強さを見せたが、死んでなお自らの死により戦いを教える。
 死はありふれたものであり、そこかしこに溢れている。
 戦おうとも、戦わずとも死ぬ。生きているからには、死は約束された結末だ。
 ならば、と思うことはとても自然だった。あるいは自らの死の至近を感じたからこそ、後押しされたのかもしれない。そうでなければ、戦場に立つ前から考えていたに違いない。
 少なくとも、生き残ったもの善意が言葉にすることはなかったが、考えが頭をよぎったことは確かだ。
 どうせ死ぬのならば。
 死ぬまでしか生きられないのならば。
 戦っても負けるかもしれないのならば。
 逃げてしまおうか。
 何もかもを放り捨て、都合の悪い全ての現実から目を背け、最後の瞬間に至るまで自分の好き勝手にしようか。
 死んでしまえば出来なくなることは多くある。どうせ死ぬのならば何も恐れなくていい。好き勝手にやっていれば、後は時が来れば獣が殺してくれる。自動的に全てが終わる。
 そう思うことを止められないほどに状況は絶望的だ。
 王都に次ぐ規模を持つ副都が獣の襲撃を受けた。結界と騎士たちで凌いでいるが、獣と人では体力が違う。仮に結界の強化と維持を騎士が全力で行ったとしても一日ももたない。そして獣はゆっくりと人を喰う。
 直ぐに救出作戦が練られた。無論、いくら騎士を派遣して民を無傷で救出が行えたとしても騎士の損害は皆無であるはずがない。しかしそれを理解してなお、多くの民を見捨てるわけにはいかなかった。
 騎士は人々の剣であり盾だ。だから騎士は行った。同胞を見捨てぬために、助けるために。
 相手がたとえ一体の獣だとしても、今まで直接都市を狙う個体はいなかった。突出した間抜けならば問題はないが、それを可能とするだけの力を持つ個体ならば状況は全く変わってくる。
 それを確かめる術は、この場にいるものにはない。副都に向かわず騎士と共にこの場を任されたのは、最悪の可能性を防ぐためだ。副都にさらなる獣が向かえば、騎士団は壊滅する。だから副都の周囲を囲うように騎士団と志願兵の混成団が配置された。
 人を助けに向かった騎士たちを守るために、この場にいる。
 与えられた任を果たすために、騎士たちは命を賭け、命を使い尽くし、獣を打倒した。
 だが、まだ任は全うされていない。
 来る絶望は、獣の形をしている。
 探知結界に反応が一つ。人の気配か、あるいは戦いの気配に誘われたのか、獣は真っ直ぐ副都へと向かっている。進行を阻めるのは、この場いるものしかいない。
 騎士はおらず、心身は共に満身創痍であり、応援すら期待できない。
 誰もが現状を理解している。都合のいい救いを期待できるような状況でないことも、自分たちのような志願兵に背後を守らせなければならない状況も、獣とまともに衝突すれば数合ともたない状況も。
「逃げよう……」
 誰が言ったかは定かではない。しかし誰もが思っていた言葉だった。
「元から勝ち目なんてなかったんだ。獣がこの世界に現れた時には、既に俺たちは終わってたんだ。戦って、抗って、それで希望が見えたか? 分かったのは獣の強さと人の弱さだけだ」
 誰もが理解している現実が改めて語られる。
 かつて人は英雄を拒絶し、そして人外との戦いに勝利した。だからこそ現在も人は続いている。それでも脅威は変わらずそこにあり、脅威であり続ける。
「戦っても死ぬ。戦わずとも死ぬ。だったら逃げちまおう。逃げて好きなことをして、死んじまおう。きっと誰も許してくれないけど、誰も彼もが死んじまうんだ。なら好き勝手やったほうがいい」
 耳から入る言葉は甘露ではなく、心を犯す毒だ。誰もがわかっていたが、目が現実を見て、絶望を理解すればするほど、心は犯され、ついには視界も都合のいい幻想を見始める。
「なあ、逃げちまおう」
 誰も責められない。責める資格を持たない。口に出さずとも、心に思い描いたことは事実だ。自らの内にだけあった言葉を耳で聞き、目が幻想を見てしまえば、戦う意思など消えて失せる。抗う気持ちの最後の一片が消えてしまえば、もう動かないはずの身体は逃走のために立ち上がろうとする。
 しかし、思い描いても口に出さなかったこともまた事実だ。
「なるほど、状況は確かに絶望的だ。騎士は全滅。残ったのは、まともな訓練も受けていない僕たち志願兵だけ、それも七人。まともにやりあうことすら出来ない。そんな状況で、もう間もなく獣の爪牙が届く距離になる」
 こうして言葉を作っている間にも獣は確実に戦いを運んでくる。どうするにしても悩んでいられる時間も、迷っている時間も多くはない。
 だからこそ、言う。
 だけど、とその男は前置きして言った。
「どれほど絶望的だろうと、抱いた望みを手放すわけにはいかない。そのために戦場に立って、そのためにここに来て、そのために戦ってるんだから」
 男の名は、バーキア。
 勇者ではなく、騎士ですらない。家名も持たない、ただのバーキアだ。
「僕に指揮権はないし、命令する資格もない。だから逃げると言うのなら構わない。けど、逃げた先で好き勝手をやるつもりなら話は別だ。僕は僕の守りたいものを守るためにここにいる。それが何かを説明するつもりはないけど、今この場で逃がすことが後の憂いとなるなら僕はあなたたちを倒して、そして獣に挑む」
 消耗しきった心身では反応は鈍かったが、それでも全く伝わらなかったわけでもない。バーキアの言った言葉の意味が正しく理解されれば、動揺という反応で理解は示される。
 愚直に自らの理想を語る姿もそうだが、何よりも現状を理解してなお獣に挑むということが大きい。現状は、バーキア自らが語ったとおりだ。絶望的という言葉が何よりも相応しい。それを理解しているからこそ、バーキアの言葉も震えているのだ。
 恐怖を理解して、それでも言葉を吐いた。
「先に言われたが、俺もそのつもりだ」
 バーキアに次いで宣言したのは、アズールだ。
 やはり勇者ではなく、騎士ですらない、家名のないただのアズールがそう言った。言葉は震えているが、それでもそう宣言した。自らの折れた剣を捨て、代わりに騎士の剣を手にして。
「だから早いところ決めてくれ。戦いを強要するつもりはないが、悪さをするならあんたらを止めなきゃならない」
 アズールもバーキアも志願兵の中では年少の部類に入る。少なからず経験を積んだものから見れば子供にも等しい存在だ。そんな子供に啖呵を吐かれた大人たちは、憤るよりも純粋な疑問が先立った。
「絶望的だと知っていて?」
「その通り」
「たった二人だけで?」
「それしか手がないなら」
 続く言葉を誰もが理解した。
 言葉の震えも隠せていないが、それでも立ち向かおうとしている。それは高潔とも立派とも表現されるべきものではない。あくまで悲壮なまでの決意の表れでしかない。
 決死の覚悟などではない。
 未知を覚悟することなど出来ない。
 だからそれは決死の決意であり、開き直った自殺と何ら変わりはない。
 勝敗の如何に関わらず、バーキアとアズールは戦いの果てに自らの死を見ている。
「勝てると思ってるのか?」
 そして、それは逃げることを宣言すること以上に致命的な言葉だ。戦って、勝った果てに死ぬのならば、まだ救いはある。背後の騎士たちを助け、副都に押し留められた人々の光明となるかもしれない。
 そうでないのならば。
 戦った果てに、敗れ、挙句に死ぬのならば。
 無為に死体が増えるだけでしかない。命さえあれば後の戦いに備えることも出来るだろうが、死ねばそれまでだ。完全な終わりであり、可能性の完結。
 そんなものには何の意味もない。
 勝敗の行方を問えるのは、それを理解しているものだけだ。
 逃げることにも戦うことにも賛同していなかったコンティニアスだけが問う。
 生き残った志願兵の中で獣との戦いを最も経験したものであり、だからこそこの場の誰よりも戦いに挑む意味を知っていた。
 その意味があるのかと問いかける
「聞こえなかったら、もう一度聞いてやる。勝ち目はあるのか?」
「……皆無だとは思っていない」
 バーキアの言葉が吐き出されるまでの逡巡、そして乗せられた苦味。吐き出された言葉以上に雄弁なものがある。
「こんな状況だ。正直に言えよ。それとも俺が言おうか? お前たち二人じゃ、絶対に無理だと」
「絶対とは……!」
 バーキアと比べてアズールは感情の言葉が先立つ。たとえ死地であっても、言葉が震えていようとも、失われない威勢で反論を紡ぐ。
「絶対さ」
 その反論も全てが紡がれる前にコンティニアスに潰される。
「お前たちは確かに俺たちに比べれば力がある。このまま戦い続けていけば、いずれは名を馳せるほどの才があるのかもしれない。素直にそれは認めよう」
 だけど、と言葉は続く。
「今は違う」
 はっきりとした否定が荒涼とした風を超えてアズールとバーキアへと届く。
「多少力があるだけだ。そして、その程度の力の持ち主が今まで全くいなかったと思っているのか? そいつらが戦ってもどうしようもなかった結果が、この現状だ」
 否定の言葉が響く大地には既に過去となったものがいる。血を流し、剣が折れ、自らの命すら果て、そうしてようやく一体の獣を打倒した結果だ。
「お前たち二人が勝てるはずなんてない。それこそ、絶対だ」
「だったら逃げろって言うのか!? 逃げて、見過ごして、次を待てと!」
「勝ち目がないことが分かりきっているのに挑むよりは余程ましだ。次の勝利の可能性すら潰してまで自らの命を捨てるのは愚の愚だ。命は捨てるものではなく、使うものだ」
 アズールの若さをコンティニアスの経験が阻む。若さは問いであり、経験は答えだ。そして答え以上の問いを若さは持たない。年齢だけではなく、経た戦場の数が違うのだ。若さからくる勢いだけではコンティニアスを超えることなど出来ない。
 ただし、アズールにあるのは力だけでも若さだけでもなかった。
 友がいる。
 バーキアがいる。
「確かに僕ら二人だけでは、勝てない。可能性はきっと皆無だ。この命を持ってしても十分な時間稼ぎもできないだろう。……命を賭けるに値しないのは、コンティニアスの言うとおりだ」
 自らの言を翻し、バーキアが現実を認める。誰もが理解していたことではあるが、本人までが否定したことにより逃げることに賛同していたものたちの歯止めはなくなる。
 相手は人外の獣だ。たった二人だけでは勝敗を語るまでもなく、戦いにすらならないことは分かりきっていた。
「だろう? それでどうするつもりだ? 仲良くケツまくって逃げるのか?」
 意地の悪い問いでしかない。
 アズールもバーキアもそんな選択をするような男ではない。それが出来ないから、勝ち目のない戦いへと挑もうとしていたのだ。
「いや、そんなことはしない。問題は僕ら二人だけでは、勝ち目がないことだけだ」
 その問題を解決する方法はある。既にバーキアの頭の中には描かれていた。
 それを口にすることがどれだけ傲慢かを理解していたからこそ、勝ち目のない戦いに挑もうとしたのだ。
 恐らくは、コンティニアスの言うとおりに愚かなのだろう。
 守りたいものがあり、戦場にいるのならば。
 敗北が許されず、勝利しか認められないのならば。
「けど、あなたたちが協力してくれるのならば別だ」
「勝ち目があると?」
「僕たちだけじゃあ、百回挑んで百回死ぬ。だけど、あなたたち五人が協力してくれるなら、百に一つは勝ちを拾える」
「その一回が最初に来る保証はあるのか?」
「ない。だけど、余程ましだろう? 命を捨てるのではなく、命を賭けることの出来る戦いがあるんだ」
 どこまでも傲慢に。
「命は使うものなのだろう」
 それほどまでに勝利を希求しているのだ。
「僕は勝つための方策を提示できる。勝つための意思もある。そして、生き残る決意もある」
 杖を握り締め、バーキアの瞳は真っ直ぐにコンティニアスを射抜く。そしてその姿を誰もが見ていた。アズールも、逃げようとしていたものも誰も彼も。
「何を偉そうに言ってるんだか。戦う以上は、勝ち目があるのが当然。それも俺たちを戦いに率いようとしてるんだ。そんなのは最初の最初に出来てなきゃ駄目なんだよ」
 心が打たれるわけでもない。心に響いたわけでもない。
 あって当然のものをコンティニアスは求めただけだ。
 何故なら、コンティニアスたちは人々を守るための騎士ではない。自らの守りたいものを守るために戦場に立った志願兵だ。
 より個人的な願いのために戦場にいる。
「俺たちは誰も逃げたいわけじゃあない。お前らは偉そうにご高説を述べてくれたが、俺達にだって守りたいものがある。だからこそ戦場にいるんだ。だからこそ勝ち目がいるんだ。勝ち目のない戦いで捨てられる命なんて一つもないんだから」
 だから、とコンティニアスは言う。
 続く言葉には、誰も異を唱えない。何故ならば、この場にいるのは誰もが志願兵だ。
 守りたいものがある。そのために勝利を欲する。
 ならば何もかもが必然だ。
「俺たちの守りたいものを守るために、勝つための全てをよこせ」
 百に一つの可能性。
 皆無ではないが、余りにも儚い希望だ。
 それでも七人は挑む。
「勝つために」
 バーキアが告げる。
「守るために」
 アズールが続く。
「生きて、戦いの果てにある平和ないつかを見るために」
 コンティニアスが剣を握り、刃を掲げる。
「現在から続く未来を望むからこそ」
 それは御伽噺の中でさえも使い古された儀式だ。
 だからこそ誰もが知っていて、だからこそ誰も拒むことをしなかった。
 御伽噺はいつも幸せな結末を迎えるのだから。
「――行こう」

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