過去だ。
もはやかつてで語られる過去に過ぎない。
現在は未来へと繋がっているが、過去もまた現在へと繋がっているのだ。振り返ればいつでもそこにある。心に刻まれた記憶は常に共にある。
そして、死に瀕した自らが最後に見る記憶がこれか。
心が思い出す最後。自ら意識せずとも、無意識が一方的に突きつける過去。
噂に聞く走馬灯ではない。楽しい記憶が呼び起こされ、せめて最後ぐらいは心安らかに死ぬために浮かぶ過去ではない。
どこにも心が安らぐものはない。戦いの記憶に心の平穏などありはしない。辛酸を舐め、苦渋を啜り、それでも諦めきれないからこそ自らの最後の一片まで抗い続ける。それが戦いだ。それがかつて居た場所だ。
これが走馬灯であるはずがない。
だとするのならば、何故この光景が浮かぶのか。何故この瞬間に、あのかつてを見せるのか。
自らが何を思って、そうしたのかが分からない。
死に瀕しながらも未だ死なず、しかし五感が薄れていく中、意識だけは逆に鮮明になっていく。考える時間が残されているかどうか知らないが、考えることしか出来ない時間だ。
蛇に喰われ、力を吸われ、何もかもが失われようとしている中、アズールは抗わずにただ自らの心に問う。
死ぬのは本望だったはずだ。それなのに何故か自らの心の最後の一片が抗う。
幾多の戦いを駆け抜け、幾つもの出会いと別れを繰り返し、かつて望んだいつかはここにある。何も心残りはないはずだ。そうやって生きてきた。だから人の身が失われ、獣となってしまっても後悔できないのだ。
せめて最後ぐらいは心安らかに終わりたい。
一体何が問題なのか。何が納得できないのか。
問おうとも、心は応えない。問いに返されるのは沈黙であり、必要なことは全てもう伝えたと突き放しているようでもある。自らの心でありながらも、自らに優しいわけでもない。
問いかけても答えはないので、考えるしかない。
かつての戦いの意味を。最後に心が見せた意味を。
意味がある保証などどこにもないが、きっとあるのだ。
別段あの戦いそのものが特別なわけでもない。戦いは頻繁にあり、常に力の無さを嘆き、絶望的な状況がほとんどで、それでも立ち向かっていく戦いばかりだった。バーキアとは始めから共におり、コンティニアスとも初めてなわけでもない。他のものたちも出会いと別れを繰り返しながら、最後まで共にいたのだ。
だが、ああ、と思い出す。
コンティニアスに諭されることは何度もあったが、命の使い方に触れたのはこれが最後だった気がする。
勇者となった後もコンティニアスは共に戦場に立ち、アズールとバーキアに足りない経験を補ってくれた。勇者となるも力の傲慢に溺れなかったのは、それ以上に獣が強かったこともあるが、コンティニアスの存在が何よりも大きかった。
今でもコンティニアスの言葉の数々を思い出せる。それほどに大きな存在だった。
色々なことを言われた。時にはその行動で示してくれた。
そしてその全てが、勝つためであり、守るためであり、望んだ未来を得るために繋がっていた。何故なら、誰も彼もが志願兵だったのだ。自らの願いのために、戦場に立つことを選んだのだ。
勝つために。
守るために。
望んだ未来を得るために。
だからこそ戦い続け、ついには勝利を得るに至ったのだ。
自らの力の無さを嘆こうとも、どれだけ絶望的であろうとも、ただ独り周囲から取り残されることになろうとも。
全ては、かつて望んだいつかのために。
そして、いつかは今ここにある。
だとすればもう戦う理由などどこにも無い。
望みはもう叶ったのだ。後悔などどこにも無いのだ。
「もういいじゃねえかよ……」
生きることが苦痛なのだ。こうして生きているだけでバーキアに迷惑をかけてしまった。かつての誓いを守るために、バーキアに決断をさせてしまった。
アズールがあの時、獣の王と相打っておけばこんなことにはならなかった。
誓いなど果たされなければよかった。
約束などしなければよかった。
後悔は無い。
過去において自らの全力を尽くし、最善を尽くしたと胸を張って言える。もしもそうでないとしたのならば、それは自らだけではなくバーキアやコンティニアスたちを貶めることになる。誰もが全力を尽くし、最善を尽くしたからこそ、現在があるのだ。
何度繰り返そうとも、同じ選択をするはずだ。
後悔など一つとしてない。
だとしたら、この感情は何なのか?
後悔の無い生涯の果てに何故悔恨があるのか。どうして生きることに苦痛を感じるのか。
過去において後悔は無い。
だとしたら未来に心残りがあるのだ。
憂いがあるのだ。
生きることをやめてしまえば、死んでしまえば、確かに楽になるだろう。全ては自動的に処理され、何がどうなろうとアズールは何も感じない存在になる。全てが完結し、可能性の全てを廃絶し、自らもまた過去となる。
現在から続く未来に、憂いを残したまま。
だからか?
自問の果てについに理解できなかった何かが形を持つ。
だからまだ戦えと、そう言うのか。
心はやはり沈黙を保つ。
しかし、それは最早何よりも雄弁だ。
「まだ戦えと、そう言うのか……!」
沈黙してしまった心の代わりにアズールの叫びが響く。
「勇者の名を失い! 友と別れ! 人ですらなくなり、人外となり獣となったこの俺が! まだ戦えだと――!」
認められるはずが無い。
これ以上、まだ戦えというのか。
戦って、戦って、戦い抜いて得た果てにあったのは人の裏切りだ。獣となったアズールをバーキアに殺させる選択を人が自ら下したのだ。
そんな世界のために戦えというのか。
ここはかつて望んだいつかではないのか。
叫びが本当に叫びとして形をなしているのかも分からない。しかし意識の中にはアズールの叫びが痛いほどに響き渡る。
心の内より生まれた叫びは心を規定する壁に幾度もぶつかり、形を変えてこだまを響かせる。
その中にはアズールの心の本当ばかりがあった。
一つとして偽りの無い感情からくる言葉。心の中だからこそ、許される全ての言葉だ。
勇者と称えられようと、所詮は人間だったのだ。獣となってしまっても、その心はまだアズールのままだ。
そこには今も勇者でいるバーキアへの嫉妬と羨望があり、もう隣に立つことの出来ない寂寞があり、先立った友への離別の悲しみと置いていかれた焦燥があり、王女の力の無さと不甲斐なさを詰ると共に重荷になってしまった自らを恥じ、人への憎悪と自らもまた人であったやるせなさを含めた全てがあった。
全ての感情から来る言葉があった。
あらゆる本当があった。
全ての感情であり、あらゆる本当であるからこそ、それはあった。
「バーキアはまだ戦い続けている……!」
それがどういう意味なのか問うまでもなかった。
アズールの中に在る本当なのだ。
バーキアにはまだ守るべきものがあるのだ。それはきっと国であり、人であり、アズールの知らない何かだろう。
そしてかつて交わされた誓いだ。
アズールの守れないものをバーキアは守り続けているのだ。
ここには確かにかつて望んだいつかがある。だが、それは常に揺らぎ消えようとする儚いものだ。あくまで人が望み、人が勝ち取ったものでしかない。人外の脅威は常にあり、同じ人でさえも脅威となりうる世界の中に、奇跡のように存在しているのだ。
手放しで存在し続けるわけではない。
守らねば次の瞬間には消え果てしまう。
だからこそ、バーキアは戦い続けているのだ。
では、アズールはどうだ?
バーキアの守れないものを守っているのか。
誓いを果たしているのか。
「――否。断じて、否だ」
自らが何をしているかなど自分が一番知っているに決まっている。
全てを投げ出して、勝手に終わろうとしているのだ。
辛いことばかり思い出して、どうしようもないことばかり論って、絶望ばかりに目を向けて、失ったものばかりを数えて。
誓いを果たし続ける友から目を背けて。
この世界こそかつて仲間が守ろうとした世界だということを忘れて。
だが、もう違う。全てに合点がいった。アズールの心は今ここに一つの合致を見た。
心は全ての甘えを吐き出し、再び全ての甘えを飲み干した。
何もかもが心の全てで、何もかもが揺ぎ無いものである。
いいだろう。そう心が言った。
勇者の名を失った。
友と別れた。
人ですらなくなった。
人外となり獣となった。
失ったものは数限りない。尽く完全に失われ、もう二度とアズールの手に戻ることは無い。
だからどうしたというのか。
失って、失って、失った果てに、それでもまだ残っているものがあるからこそ、心は叫びを放ったのだ。
かつて友と望んだいつかがここにある。
仲間たちが守りたいと願った世界がここにある。
彼らに続くものがここにはいる。
そして、かつて痛いほどに望んだ力がここにはある。
まだこれだけのものがここにはあるのだ。
喪失による絶望は至近にあるが、絶望しきるにはまだ早い。
何もかも全てを失ってからでは、絶望すら出来ないかもしれないが、だからこそ今はまだ絶望に身を浸す時ではないのだ。
絶望など幾つ超えてきたか分からない。
勇者の名を失おうと。
友と別れようと。
人ですらなくなろうと。
人外となり獣となろうと。
自らが誰であるかを忘れたわけではない。
自らの胸にある想いを思い出せないわけではない。
自分が誰であるかなど、誰でありたいかなど、他の誰でもない自分が一番よく知っている。
改めて告げるまでも無い。
しかし、敢えて告げよう。
永い眠りから醒めるのならば、目覚めの鬨が必要だ。
「俺はここにいる!」
それは宣言だ。自分を含めたありとあらゆる全てに対する名乗り。
再び世界という舞台へと登場する決意。
勇者の名を失い、友と別れ、人ですらなくなり、人外となり獣となった。
では、果たして自らが誰なのか。
教えてやらなければならない。
忘れたというのならば、忘れられないように刻まなければならない。
その名を突き立てなければならない。
「俺の――アズールの名を」